東京地方裁判所 昭和59年(ワ)3358号 判決 1992年2月25日
原告
本多勝一
右訴訟代理人弁護士
尾崎陞
同
尾山宏
同
雪入益見
同
鍜治利秀
同
小笠原彩子
同
桑原宣義
同
浅野晋
同
原勝己
同
渡辺春己
同
加藤文也
昭和五九年(ワ)第三三五八号事件被告
株式会社文藝春秋
右代表者代表取締役
千葉源蔵
昭和五九年(ワ)第三三五八号事件被告
堤堯
昭和五九年(ワ)第三三五八号事件被告
殿岡昭郎
昭和五九年(ワ)第七五五三号事件被告
村田耕二
右被告四名訴訟代理人弁護士
植田義昭
同
佐藤博史
右被告殿岡昭郎訴訟代理人弁護士
星運吉
主文
原告の請求をいずれも棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。
事実
第一 当事者の求めた裁判
一 原告
1 被告株式会社文藝春秋は、原告に対し、月刊雑誌「諸君!」に、原告作成の題名を目次に記載し、かつ、本文に八ポイント活字三段組で別紙反論文記載の反論文を一回掲載せよ。
2(一) 被告株式会社文藝春秋、同殿岡昭郎及び同村田耕二は、原告に対し、共同で月刊雑誌「諸君!」に、九ポイント活字を使用して別紙謝罪文(一)記載の謝罪文を一回掲載せよ。
(二) 被告株式会社文藝春秋、同殿岡昭郎及び同村田耕二は、原告に対し、連帯して金一一〇〇万円及びこれに対する昭和五九年七月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
3(一) 被告株式会社文藝春秋及び同堤堯は、原告に対し、共同して月刊雑誌「諸君!」に、九ポイント活字を使用して別紙謝罪文(二)記載の謝罪文を一回掲載せよ。
(二) 被告株式会社文藝春秋及び同堤堯は、原告に対し、連帯して金一一〇〇万円及びこれに対する昭和五九年七月二一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。
4 訴訟費用は、被告らの負担とする。
二 被告ら
主文と同旨
第二 当事者の主張
当事者の主張の詳細は、別紙「原告の主張」、「被告らの主張」のとおりであり、その要旨は、以下のとおりである。
一 原告
(請求の原因)
1 当事者
(一) 原告
原告は、訴外株式会社朝日新聞社(以下「朝日新聞」という。)の編集委員の職にある記者であり、昭和五二年一二月朝日新聞発行の「ベトナムはどうなっているのか?」(以下「本件著作物」という。)を執筆した者である。
(二) 被告ら
(1) 被告殿岡昭郎(以下「被告殿岡」という。)は、被告株式会社文藝春秋(以下「被告文春」という。)発行の月刊雑誌「諸君!」(以下「諸君!」という。)昭和五六年五月号に掲載された「今こそ『ベトナムに平和を』」と題する評論(以下「本件評論」という。)を執筆した者である。
(2) 被告文春
被告文春は、本件評論を掲載した雑誌「諸君!」の発行会社である。
(3) 被告村田耕二
被告村田耕二(以下「被告村田」という。)は、被告文春の社員で、昭和五六年三月まで「諸君!」の編集長の地位にあった者である。
(4) 被告堤堯
被告堤堯(以下「被告堤」という。)は被告文春の社員であり、昭和五六年四月から被告村田を引き継いで昭和六一年六月まで「諸君!」の編集長の地位にあった者である。
2 被告らの違法行為
(一) 被告殿岡の違法行為
(1) 民法七〇九条該当性
原告は、本件著作物の一七六頁ないし一七八頁において、一二人の集団“焼身自殺”事件と題して、いわゆるファム・ブァム・コー事件(以下「本件事件」という。)につき、ティエン・ハオ師(以下「ハオ師」という。)が語った内容を、別紙「本件著作部分」のとおり、原告の見解・判断を交えない報道(いわゆる発表もの)として紹介した。
ところが、被告殿岡は、別紙「本件評論部分」(以下、本件評論中のこの部分を「本件評論部分」ともいう。)のとおり、本件評論の五八頁ないし六三頁において、右報道内容を原告の見解とする架空の事実を作出した上、この事実を前提に原告を非難、中傷した。
右非難、中傷は、原告が、本件事件について、「重要な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに断定して書いて」おり、「これは報道記者としての堕落で」あり、「誤るにも誤り方があるというもので一二人の殉教者を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳できまい。本多記者は筆を折るべきである。」などというもので、評論、批判の範囲を逸脱し、最大限の悪罵(非難、中傷)を弄しているものである。
さらに、右非難、中傷は、被告殿岡が入手したとする本件事件の録音テープに基づいているが、右録音テープは、一聞しただけで不自然に編集され直されている疑いがあることが歴然としているにもかかわらず、同被告は、右録音テープの真偽を確かめないままこれをうのみにして、原告への非難、中傷の根拠としているのである。
被告殿岡のこのような行為は、原告のジャーナリストとしての地位、声望の失墜を意図した誠に許容し難いものであり、原告の名誉を著しく毀損するものであって、同被告は、民法七〇九条以下の責任を免れない。
(2) 著作者人格権の侵害
著作権法二〇条は、「著作者は、その著作物及びその題号の同一性を保持する権利を有し、その意に反してこれらの変更、切除、その他の改変を受けないものとする。」と規定し、同法三二条一項は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるものでなければならない。」と規定し、さらに、同法一一三条三項は、「著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を引用する行為は、その著作者人格権を侵害する行為とみなす。」と規定する。
本件評論においては、前記のとおり、いわゆる発表もので本件著作物の記載内容について、それが原告の見解とする架空の事実を作出しており、原告が本件著作物の同一性保持権を損ない、批評その他の引用の目的上正当な範囲を逸脱して原告の著作者人格権を侵害する違法なものである。
(二) 被告村田の違法行為
被告村田は、「諸君!」の編集長としてその企画・編集について責任を負う立場にあった者であり、本件評論の内容を知り又は知り得る立場にあったのであるから、右(一)記載のような違法な内容の本件評論部分の掲載を中止すべきであったにもかかわらず、これをしなかったばかりか、その内容を知りながらあえて本件評論を「諸君!」昭和五六年五月号に掲載した。
したがって、被告村田は、被告殿岡と共同して、民法上の不法行為責任及び著作権法上の著作者人格権の侵害として違法行為責任を免れることはできない。
(三) 被告堤の違法行為
原告は、被告殿岡らの違法行為により、被告文春に対して、本件評論に対する反論文掲載請求権(反論権)を有するに至り、かつ、被告文春は、「諸君!」に原告の右反論文の掲載を約束していた。しかるに、被告堤は、「諸君!」の編集長としての地位を利用し、原告の被告文春に対する反論権の行使を妨害し、そのため、原告は、右反論権の行使によって回復されるべき名誉を侵害されたままである。
被告堤のかかる行為は、原告の被告文春に対する反論権という権利の侵害行為であり、民法上の不法行為を構成するものというべきである。
(四) 被告文春の違法行為
被告文春は、違法な内容の本件評論部分を掲載した「諸君!」昭和五六年五月号の発行社としての責任ならびに被告村田及び同堤の使用者としての責任を免れることはできず、また、被告殿岡とは共同不法行為者としての責任を負わなければならない。
さらに、被告文春は、被告殿岡と共同として著作権法上の著作者人格権侵害の責任を負わなければならない。
3 被告らの責任内容
(一) 「諸君!」誌上への反論文の掲載(被告文春に対する請求)
(1) 反論文掲載請求権(反論権)の根拠
他人の違法行為によって名誉、人格上の権利を侵害された場合、これを回復する措置を加害者に対し請求できることは、現代法における普遍的原則である。雑誌、新聞など特定のマスメディアが掲載した評論、論文などにより他人の権利を侵害したとき、被害者の救済としては、損害賠償、謝罪文の請求ができることは当然であるが、被害者の救済としては、名誉、人格上の侵害に対しては、当該評論、論文などの掲載誌を通じて反論する権利を保障することが効果的な手段のひとつとなる。なぜなら、特定の雑誌などに掲載された違法な評論などによって読者が影響を受けた場合、同一雑誌に被害者が反論文を掲載することによって、その影響を消去することがある程度可能だからである。反論文の掲載によって回復される名誉、人格上の利益は、損害賠償や謝罪以上に大きい。そのために保障された権利が反論権である。反論権は、違法な評論などを掲載した雑誌などの発行社に対する権利であり、民法、著作権法により認められた実定法上の権利である。
(2) 原告の被告文春に対する「諸君!」誌上での反論権の存在
原告は、被告文春に対し、次のア、イの根拠に基づき、本件評論により侵害された名誉、著作者人格権を回復するために必要な反論文を「諸君!」に掲載する権利を有する。
ア 民法七二三条を根拠とする請求
民法七二三条は、名誉毀損行為に対し、「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命スル」ことができると定めている。この処分として、一般には謝罪文が考えられるが、謝罪文は加害者が被害者に対してなすものであり、十分意を尽くすことができず一定の限界がある。謝罪文のみでは不十分な場合、反論文の掲載によって名誉を回復することができる。同条は、広く適当な処分を命ずることができると定めているから、この規定は反論権の根拠となるものであり、原告の反論文掲載請求の根拠のひとつは、本条を根拠とするものである。
イ 著作権法一一五条を根拠とする請求
著作権法一一五条は、「著作者は、故意又は過失によりその著作者人格権を侵害した者に対し、損害の賠償に代えて、又は損害の賠償とともに、著作者であることを確保し、又は訂正その他著作者の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。」と規定する。本条は、被害者に対し、反論権を含む被害の回復措置を保障した規定であると解される。
(3) 反論文の内容
原告が請求する反論文は、違法な本件評論部分を正し、侵害された原告の名誉、著作者人格権の回復に必要なもので、その内容は、別紙反論文に記載のとおりである(以下「本件反論文」という。)。
(二) 「諸君!」誌上への謝罪文の掲載
(1) 原告は、被告殿岡、同村田及び同文春に対し、前記2(一)、(二)、(四)の違法行為について、民法七二三条又は著作権法一一五条に基づき、違法な本件評論を掲載した「諸君!」誌上に謝罪文を掲載することを請求する権利を有する。そして、原告の求める謝罪文は、別紙謝罪文(一)に記載のとおりである(以下「本件謝罪文(一)」という。)。
(2) 原告は、被告堤及び同文春に対し、前記2の(三)、(四)の違法行為について、民法七二三条に基づき、違法な本件評論を掲載した「諸君!」誌上に謝罪文を掲載することを請求する権利を有する。そして、原告の求める謝罪文は、別紙謝罪文(二)に記載のとおりである(以下「本件謝罪文(二)」という。)。
(3) なお、反論文は、原告がその名において行うものであるのに対し、謝罪文は、被告らが被告らの名において行うものであって、救済の趣旨は同じでもその手段は異なる。本件のごとき不法行為の場合には、両者の掲載により初めて名誉、声望の回復が可能であるので、原告は、本訴において、この両者をともに請求する。
(三) 損害賠償
(1)ア 原告は、被告殿岡、同村田及び同文春による前記2の(一)、(二)、(四)の違法行為によって、ジャーナリストとしての名誉を毀損され多大な精神的苦痛を被ったものであり、右苦痛に対する慰謝料は、金一〇〇〇万円を下らない。
イ 原告は、原告訴訟代理人らに本訴の提起、追行を委任し、弁護士費用として右慰謝料額の一割に当たる金一〇〇万円を支払うことを約束した。
ウ したがって、原告は、右被告らに対し、民法七二三条又は著作権法一一五条により右ア、イの合計金一一〇〇万円の賠償を請求する権利を有する。
(2)ア 原告は、被告堤及び同文春による前記2の(三)、(四)の違法行為によって、ジャーナリストとしての名誉を毀損され多大な精神的苦痛を被ったものであり、右苦痛に対する慰謝料は、金一〇〇〇万円を下らない。
イ 原告は、原告訴訟代理人らに本訴の提起、追行を委任し、弁護士費用として右慰謝料額の一割に当たる金一〇〇万円を支払うことを約束した。
ウ したがって、原告は、右被告らに対し、民法七二三条により右ア、イの合計金一一〇〇万円の賠償を請求する権利を有する。
4 よって、原告は、
(一) 被告文春に対し、原告の求めた裁判1記載の方法で本件反論文を「諸君!」に掲載することを求め、
(二) 被告殿岡、同村田及び同文春に対し、請求の趣旨2(一)記載の方法で本件謝罪文(一)を「諸君!」に掲載すること並びに連帯して右3(三)(1)の損害金一一〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和五九年七月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求め、
(三) 被告堤及び同文春に対し、請求の趣旨3(一)記載の方法で本件謝罪文(二)を「諸君!」に掲載すること並びに連帯して右3(三)(2)の損害金一一〇〇万円及びこれに対する不法行為の後である昭和五九年七月二一日から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。
(被告らの主張に対する答弁)
争う。
二 被告ら
(請求原因に対する答弁)
1 請求原因1の事実は、認める。
2(一) 同2(一)(1)のうち、原告が本件著作部分において、一二人の集団“焼身自殺”事件と題して、本件事件につき報道していること、本件評論の本件評論部分中に原告指摘の記述部分があることは認めるが、その余の事実は否認し、主張は争う。
(二) 同2(一)(2)のうち、著作権法に右の規定があることは認めるが、主張は争う。
(三) 同2(二)のうち、被告村田が、「諸君!」の編集長としてその企画・編集について責任を負う立場にあり、本件評論の内容を知り又は知り得る立場にあったことは認めるが、その余の主張は争う。
(四) 同2(三)の事実は否認し、主張は争う。
(五) 同2(四)の主張は争う。
3(一) 同3(一)のうち、民法七二三条及び著作権法一一五条の規定については、認めるが、その余の主張は争う。
(二) 同3(二)の事実は否認し、主張は争う。
(三) 同3(三)の事実は否認し、主張は争う。
(被告らの主張)
1 本件評論部分における本件著作部分の引用の正当性について
(一) 本件訴訟の論点は、被告殿岡が本件評論部分の中で本件著作部分を歪曲して引用したものであるか否かにある。すなわち、原告が被告殿岡の不法行為として主張するところは、被告殿岡が、本件評論部分において、原告が本件著作部分で本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記載したと歪曲して引用したという点にあるから、本訴の争点も、被告殿岡が、本件評論部分において、原告が本件著作部分で本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記載したと歪曲して引用したか否かにあり、被告殿岡が本件評論部分の中で本件事件がベトナムの新政権に対する抗議の焼身自殺であるとして原告の本件著作部分を批判していることが確実な根拠に基づく正当な批判かどうかではない。そして、被告殿岡は、本件評論部分において、本件著作部分を原告の直接的な調査結果ではないと引用しており、原告の批判は妥当しない。
(二) 被告殿岡が、本件評論部分において、「本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と頽廃の結果」であるといっている」「本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いている」等と記載した部分があるが、そもそも引用は、被告殿岡の本件著作部分に対する一定の理解に基づいてなされるものであり、その適否は全体として考察が必要であり、かつ、批判、論評の域を逸脱したものであるか否かという観点からこれを論ずる必要がある。そして、本件著作物を全体として考察すれば、本件著作部分は、原告の見解を交えない発表物というものではなく、その意味で、前記のような被告殿岡の引用も許容されるというべきである。
2 反論文掲載請求権について
(一) 原告は、「知る権利」を反論権の背景ないし根拠として主張するが、「知る権利」の享受者はいうまでもなく国民一般であって、第三者たる原告が国民一般に対する被告の義務なるものを主張して反論文の掲載を求めるのは筋違いである。
(二) 原告は、本訴において、民法七二三条に基づき反論文の掲載を求めるが、同条にいう「適当ナル処分」とは謝罪広告あるいは訂正広告を意味し、反論文掲載を含まないものと解するのが従来の通説、判例であり、被告らもこれを正当と考える。すなわち、反論文の掲載を法的に強制することは、表現の自由のひとつである編集の自由ないし編集権を侵害し、表現の自由に対する萎縮的効果をもたらすが故に違憲であるというべきである。
また、著作権法一一五条にいわゆる「訂正その他著作者の名誉若しくは声望を回復するために適当なる措置」に反論権を含むとの主張は原告の独自の主張である。
第三 証拠関係<省略>
理由
第一請求原因1の事実、原告が、本件著作部分において、一二人の集団“焼身自殺”事件と題して本件事件について報道していること、及び本件評論の本件評論部分中に原告指摘の記述部分があることは、いずれも当事者間に争いがない。
右事実によれば、本件評論部分において、被告殿岡が、本件著作部分を引用し、その信憑性を疑い、原告の執筆姿勢を批判した上、「なげやりな書き方」「報道記者としての堕落」「本多記者を「ハノイのスピーカー」と呼ぶ人がいる」「本多記者は筆を折るべきである。」などと記述していることは、明らかである。
第二損害賠償及び謝罪文掲載請求についての判断
原告は、本件評論部分における本件著作部分の引用が違法であり、本件評論部分の評論が根拠を欠くものであると主張し、民法七〇九条、七二三条、著作者人格権を根拠に、損害賠償及び謝罪文掲載を請求し、被告は、これを争うので、本件評論部分の適否について判断する。
一被告殿岡が本件評論を執筆するに至った経緯
前示第一の事実、<書証番号略>、検証の結果(平成二年一二月四日実施分)並びに原告、被告殿岡各本人尋問の結果によれば、被告殿岡が本件評論を執筆した経緯について、次の事実を認めることができる。
1 昭和五一年(一九七六年)九月九日の「朝日新聞」夕刊は、パリ発のロイター電として、昭和五〇年(一九七五年)一一月二日にベトナムの僧侶九人と三人の尼僧が新政権の宗教政策に抗議して集団自殺したと報じた。この事件は、ファム・ヴァム・コー事件と呼ばれ、ベトナム戦争終結(昭和五〇年)直後のベトナム新政権の宗教政策に対する抗議運動として、理解されていた。
2 原告は、朝日新聞の記者として、ベトナム戦争中から数度にわたってベトナムでの取材をし、その報告記事を公表していたが、昭和五一年三月、再び、ベトナムを訪ねて、ベトナム戦争終結後のベトナムを取材した。
3 原告は、同年三月七日から同年四月一三日までの間ベトナムに滞在したが、その間の同年三月一九日、サイゴンの永源寺において、原告及び毎日新聞、読売新聞の各記者の三人とベトナムの愛国仏教会関係者との記者会見が行われた。この席において、愛国仏教会の副会長であるハオ師は、本件事件について、記者の質問に答えて、本件事件について語った。それが、本件著作部分の内容である。
4 原告の右ベトナム滞在中の取材結果は、そのころ朝日新聞に連載で掲載された。本件著作物は、右の掲載記事を中心に、その後原告が雑誌に発表したものを加筆、修正した上、発行されたものである。
5 被告殿岡は、国際政治学を専攻とする学者で、本件評論執筆当時、東京学芸大学教育学部助教授の職にあって、特に東南アジアの問題、共産主義の戦略、戦術等に関心を持っていた。被告殿岡は、右学問的関心に関連して、ベトナム戦争中に日本で行われていたベトナム問題についての評論ないしは報道に誤りがあるとの認識を持ち、大量の難民が国外に脱出するなどのベトナム戦争終了後のベトナムの情勢からしてその認識を更に強め、これについて、まとまって研究をしてみたいと考えていたところ、原告がベトナム問題に関する報道の中心的人物であったことから、その著作物には目を通しており、原告の本件事件についての報告及び昭和五二年一二月に朝日新聞より発行された本件著作物も読んでいた。
6 被告殿岡は、本件著作物に目を通す前から本件事件を新聞報道で知っており、本件著作物で示された報告は、信じられないとの印象を受けたが、当時は具体的な反論資料もなく、具体的な行動を起こそうとまでは考えなかった。
7 被告殿岡は、昭和五三年七月ころ、ベトナム難民であるいわゆるボートピープルと接してベトナム難民についての関心を強くし、日本にいるベトナム難民ばかりでなく、世界、とりわけアメリカ合衆国に多くいるベトナムからの出国者に対して取材をしようと考え、その一環として、知人を通じ、同年九月二六日、ロスアンゼルスの郊外にある仏教寺の「越南寺」の住職であるマン・ジャック師と会談する機会を得た。
8 被告殿岡とマン・ジャック師との右会談の中で、マン・ジャック師は、ベトナム戦争終結後の新政権下においての宗教弾圧がひどいと話し、弾圧がひどいから抵抗も激しくなる例として本件事件を語った。これに対し、被告殿岡が本件著作物で示された本件事件についての報告を紹介したところ、マン・ジャック師は驚き、被告殿岡に対し、本件事件の背景等について語るとともに、「ベトナム社会主義共和国における人権擁護についてのベトナム統一仏教会のアピール」と題したドキュメント集を渡し、信者が本件事件の際に録音したとされるテープを聞かせた(なお、被告殿岡は、右録音テープのコピーについては、後日、マン・ジャック師から送付を受けた。以下、この録音テープを「殿岡テープ」という。)。
9 被告殿岡は、アメリカ合衆国への取材以前である昭和五三年八月の終わりころ、「月曜評論」紙の担当者からベトナム戦争ないしはベトナム問題について公表された発言や評論を全体として批判してみないか、と勧められていたところ、同年一〇月中旬ころに帰国した後、原告の本件著作部分についての反対資料と思われる殿岡テープを入手したこともあって、その執筆を決意し、マン・ジャック師から送付を受けた右テープをベトナム人留学生に翻訳させるなどして検討を加えた。そして、被告殿岡は、マン・ジャック師の話や送付を受けた殿岡テープの内容に加え、本件著作部分の「二六人を妻にしていたこと」、「「大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えずお粥を食べなければならなくなっていた」僧侶が「麻薬と睡眠薬」を用いて六時間に及ぶセックス・パーティに興じていた」等という記事の内容それ事態から信用できないと感じ、また、原告が、(1)愛国仏教会というベトナム当局の発表をそのまま本件著作部分に記載していること、(2)原告が愛国仏教会の調査に非常に信頼を置き、そこで発表したものが事実であると信じているように読めるような表現を用いていると考え、これに批判的な意見を持った。
10 被告殿岡は、昭和五四年一月から「月曜評論」に、ベトナム戦争当時における日本人ジャーナリストその他の言論人の言動についての批判を執筆するに当たり、その第一回(月曜評論第四一六号、昭和五四年一月一五日発行。<書証番号略>)に原告の本件著作物の批判を掲載した(その記載内容は、本件評論とほぼ同内容である。その後、「月曜評論」に執筆、連載された被告殿岡の評論は、「言論人の生態」(<書証番号略>)にまとめられた。)。被告殿岡は、「月曜評論」において本件著作部分の批判を掲載するに当たり、前示9のとおり、原告が本件著作物において、ハオ師の言葉の引用の形式をとって自己の見解を示していると判断して、その判断を前提に、本件著作部分を引用、批判した。
11 被告殿岡は、「諸君!」の編集部員であった訴外斉藤から、「月曜評論」に連載している評論のうち、中心になるような部分「エッセンス」を、単行本として出版する前に紹介しないかと求められ、三回にわたって連載したべ平連に対する批判部分を、前者については要約し、後者についてはやや要約した形で執筆し、昭和五四年五月号の「諸君!」に、本件評論を掲載した(本件評論、<書証番号略>)。
二本件評論部分は、本件著作部分を引用の上、前示のとおり批判しているが、その批判は、原告の執筆姿勢に関わる部分と取材内容の信憑性に関わる部分に分けられる。
ところで、公共の利害に関する事項について自由に評論、批判を行うことは、もとより、民主主義社会の基盤のひとつであって、表現の自由の行使として最大限尊重されるべきであり、その対象が公表された著作物である場合においては、右評論等により当該著作物の著者の社会的評価が低下することがあっても、その目的が専ら公益を図るものであり、かつ、その前提としている事実が主要な点において真実であることの証明があったときは、私生活の暴露や人身攻撃に及ぶなど評論等としての域を逸脱したものではない限り、いかにその評論等の用語や表現が激越、辛辣なものであっても、名誉侵害の不法行為の違法性を欠き、仮に真実の証明がなくとも、行為者において真実と信じるにつき相当の理由があるときは、故意又は過失を欠き、損害賠償責任を免れるものと解される(最高裁昭和四一年六月二三日第一小法廷判決・民集二〇巻五号一一一八頁、最高裁平成元年一二月二一日第一小法廷判決・民集四三巻一二号二二五二頁)。
そして、他者の著作物の評論は、当該他者の著作物を対象とするものであるから、その評論に際して、当該他者の著作物の引用又は要約を伴うものであるが、その引用又は要約については、その著作物を当該著者名で搭載又は転載する場合と異なり、当該他者の同意を要しないのはもちろん、当該他者の著作物を逐一そのまま引用することを要するものではなく、評論者が、その評論に必要であると判断する限りにおいて、その一部を引用又は要約することも許されるところ、その一部引用又は要約は、当該評論の判断を経由してされるものであるから、評論の対象となる著作物の著者の真意と一致しないこともあり得ることであるが、その正確性の判断は、第一次には、当該評論とともに、言論の自由の広場において、読者の判断に委ねられるものであり、それが、違法となるのは、評論者が、評論の対象となる著作物の著者の人身攻撃などのために、原文の意味、趣旨と明らかに異にした引用又は要約をするなど、評論者として社会的に許容された範囲を逸脱したときに限られ、右引用又は要約が、その一部において原文と相違していても、全体として、主要な点においてその趣旨を伝えている場合には、真実性の証明があった場合と同様に、違法性が阻却されるものと解される。そして、一部引用又は要約が右の範囲を逸脱したか否かは、原文との相違の程度、評論者の評論の趣旨、目的、反論の機会の有無などを総合して判断すべきである。
三本件評論部分の引用の内容
前示一の事実、<書証番号略>によれば、次の事実が認められる。
1 本件著作部分は、別紙の「本件著作部分」記載のとおりであり、本件評論部分は、別紙の「本件評論部分」記載のとおりであるところ、本件著作部分には、本件評論部分からの引用の前に「愛国仏教会副会長で、日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、「外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です」として、ハオ師が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」とある(一七八頁二行目から五行目)が、本件評論部分には、これが記載されていない。
2 本件評論部分には、「この事件について、本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」であるといっている。」とあること(六一頁中段八行目から一〇行目)、本件著作部分では「この事件は解放のあとで」から「発表したのでしょう」とある部分が一重括弧で囲われ、その次に、改行して「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」とある(一七八頁四行目から七行目)のに、本件評論部分では右部分が二重括弧で囲われて、その次に、改行して「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」とある(六二頁上段一七行目から中段一行目)こと、本件評論部分には、「しかし、何よりも問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」とあり(六一頁中段一九行目から末行目)、「誤るにも誤りかたがあるというもので、一二人の殉職を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。」とある(六三頁中段一一行目から一四行目)ことは、それのみを見ると、原告が本件著作部分を自らの調査結果として記述し、ハオ師の語ったのは、右の二重括弧部分のみであるようにも読める。
3 本件評論部分には、「(この日付は一九七七年のこととなり、外電ともテープの証言ともずれている)」(六一頁中段一三行目から下段一行目)「(僧侶と尼僧の数がテープと少し異なるが、同じ出来事について書いていることは間違いがない)」(六一頁下段五行目から七行目)とあるが、これらは、本件著作部分には存しない。
4 本件著作部分には、「薬師禅院」の次に「(ズクスティエンヴィエン)」(一七七頁六、七行目)、「焼け死んだ。」の次に「この中にいたフエ・ヒエン師という三二歳の男が事件の首謀者である。」(一七七頁七、八行目)、「バクリュウ省」の次に「(現在ミンハイ州)」(一七七頁九行目)が、「針」「灸」に「はり」「きゅう」とする振り仮名(一七七頁一一行目)が、「ホンヴァン郡にいた僧で」の次に読点(一七七頁九行目)が存するが、本件評論部分にはこれらが存しない。
5 他方、本件評論部分の大部分は、本件著作部分の原文をそのまま引用したものである上、本件評論部分には、本件著作部分がハオ師が語ったことを伝達したものであることを窺わせる次の記述が存する。
(一) 「比較のためにその部分を引いてみよう。」として、改行の上、引用部分を一重括弧で区分した上、その最後に「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」とされていること(六一頁中段一一行目から六二頁中段二行目)、
(二) 「真実の探究」の表題の冒頭に、「本多記者の紹介する話」とされていること(六二頁中段九行目)、
(三) 「政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしている」とされていること(六二頁下段一二行目から一三行目)、
(四) 「本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。」とされていること(六二頁下段一四行目から一六行目)、
四前示二、三の判断を基に本件評論部分の引用の適否を判断する。
1 まず、三1、3、4について判断するに、本件評論部分には、1の記載はないが、本件評論部分の大部分は、本件著作部分そのままの引用であって、しかも、5(一)ないし(四)のとおり、本件評論部分には、本件事件の報告が原告自らの調査結果でないことを指摘し、これを評論の対象としているのであるから、右の部分が引用されていないからといって、通常の読者が本件著作部分の意味を誤るものとはいえない。また、3については、それが、本件記事に係る被告殿岡の注書を示すものであることは、記載自体によって、明らかであり、4については、本件評論の論点と関係が薄いものとして省略されたにすぎず、三1、3、4の点は、何ら違法ではない。
2 次に三2について判断するに、本件評論部分において、「この事件について、本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」であるといっている。」とある部分、及び「何よりも問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」とあるのは、原告が取材の制限のままベトナム当局にくみする団体の調査結果を伝えたことの執筆姿勢に対する批判、論評にとどまらず、あたかも、原告がそう言っているというようにも読める。また、本件著作部分には「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」という記載自体はなく、ハオ師の言ったこととして「焼身自殺などとは全く無縁の代物です」(一七七頁四行目から五行目)、ヒエンは、「思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係を持つようになり、」(一七七頁一二行目、一三行目)とあるのみである。また、本件評論部分の括弧、二重括弧の付け方が原文である本件著作部分と異なり、そのため「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」とある対象がやや不明確になっている。
3 ところで、被告らは、三2の記述について、原告がハオ師が発表した愛国仏教会の調査結果に原告も同意見であるとの認識の下に記載されたものであると主張し、被告殿岡本人尋問の結果もこれに沿うものであるが、<書証番号略>及び原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件著作物において、ベトナムでの取材について、取材の自由が確保されていないことを指摘し、本件事件についても、いわゆる「発表モノ」であって、原告自身の「直接的ルポとするわけにゆかない」(<書証番号略>)としているのであるから、これを原告が「いっている」とか「断定している」と表現するのは、不正確であり、やや軽率であったというべきである。
しかしながら、<書証番号略>及び被告殿岡本人尋問の結果によれば、
(一) 本件評論部分には、本件事件の真実がベトナム戦争後の新政権の宗教政策に抗議するための焼身自殺であるとの被告殿岡の認識(その認識の根拠については、五に判断する。)を基に、本件著作部分における無理心中とする見解を批判し、それをそのまま伝えた原告の執筆姿勢を評論のテーマとしたものであり、無理心中とする見解が原告の直接の調査結果であるとして、これを批判しているのではないこと、
(二) 本件評論部分において、本件著作部分の無理心中とする見解が原告の直接の調査結果でないことは、前示三、5(一)ないし(四)の記載上も明らかにされている上、ハオ師の言葉の引用句の括弧書は、本件著作部分を全体を括弧で引用したため、原文の括弧部分が二重括弧にされたに過ぎず、右の5(一)ないし(四)の記載を併せて読めば、通常の読者がこれを原告の直接の調査結果であると読み誤ることはないこと、
(三) 被告殿岡が、「原告」が「いっている」とか「断定している」とかの前示の記載をしたのは、同本人尋問の結果によれば、本件著作物において、「前章に出てくるファム・ヴァム・コー(フエ・ヒエン師)の事件とはどういうことであろうか。」と原告の問題提起をした上、「この『ティンサン』紙の報道より二〇日ほど前に、私たちは愛国仏教会とのインタビューでこの件について詳しくきいていた。愛国仏教会は愛国知識人と同様に、革命政権に協力するための仏教界での組織であって、これまでに仏教界の一七派が加わっている。」(一七六頁)、「ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした」(一七七頁)とし、無理心中とする見解の報道源の根拠を示していること、抗議自殺とする見解を「西側で宣伝された事件」(二六八頁)としているのに対し、無理心中とする見解を「サイゴン当局の調査」によるもの(二六八頁)と表現していること、及び「悪意ある反動側のベトナム攻撃、中傷」(二六九頁)という表現をしていることなどから、被告殿岡は、ハオ師の発表した愛国仏教会の調査結果に原告が好意的であるとの認識を持ったことによることが認められ、本件著作物の右表現に、新聞記者が、事実の存否・内容を根拠付ける情報を伝える場合には、その情報が虚偽又は無価値であると判断した場合には、これを伝えないのが通例であることを考慮すると、被告殿岡が前示の判断をしたことは是認できないものでもないこと、
(四) 本件評論部分において本件著作部分の出典及び掲載頁が、「『ベトナムはどうなっているのか?』(百七十七―七十八頁)」として正確に記載されており、通常の読者は、その引用の正確性を確認できる上、弁論の全趣旨によれば、原告は、本件評論部分に対し、マスメディアを通じて反論する機会を有しており、現にしていること、以上のとおり認められる。
右事実及び前示第二、一の本件評論執筆の経緯によると、本件評論は、ベトナム戦争後の新政権の下で大量の難民が国外に脱出した情勢を踏まえ、我が国におけるベトナム関係の論説及び報道等を批判したものであって、本件評論部分はその一環として、本件事件を無理心中とする見解に疑問を呈するとともに、原告の執筆姿勢を批判したものであり、その対象が公共の利害に関する事項であることが明らかであって、また、本件評論部分における本件著作部分の引用には、原文と若干異なり、正確を欠く部分があるが、引用された文言のほとんどが原文のままであり、その評論の趣旨から見て、原文の要点を外したものとはいえず、しかも、被告殿岡の引用、要約に根拠がないものとはいえないこと、及び原告の反論の機会等を考慮すると、右引用、要約の正確性は、言論の自由な広場においての読者の判断に委ねられるものであって、右引用、要約をもって、評論者として社会的に許容された範囲を逸脱したものとはいえず、その内容に真実性の証明があったと同様に、右引用、要約は違法とはいえない。
4 原告は、著作権法二〇条、三二条一項、一一三条三項を引用して、原告の著作者人格権の侵害になる旨の主張もしているが、著作権法による著作者人格権も、表現の自由との調和の中に理解されるべきものであり、評論者に許容された範囲の引用は、著作者の同意を得ないでもなしうるものであり、その引用が違法とはいえないことは、前示のとおりであるから、右主張は、失当である。
五本件評論部分における評論内容の適否について判断する。
本件評論部分は、前示のとおりの引用の上、本件著作部分について前示のとおりの非難を加えている。その内容中には、「本多記者の紹介する話はいかにもインチキ臭いではないか。」、「「スパイ活動していた」「寺の中で多くの尼さんと関係していた」「合計二六人を妻にしていた」「宴会」「麻薬と睡眠薬」といった小道具からしていかがわしい。「大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えずお粥を食べなければならなくなっていた」僧侶が「麻薬と睡眠薬」を用いて六時間に及ぶセックス・パーティに興じていたというのである。しかし何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」、「カントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分をすべて伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。」、「あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。アラスカとニューギニアにつづいてベトナムでも本多記者は「足で書く」記者であったはずである。もちろん『戦場の村』の内容や方法については批判は多い。しかし本多氏は現場に行って事実を確かめたうえで「自分はこう思う。」と自己を守ることができた。しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムへの抗議は評価しないというなら、また取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を「ハノイのスピーカー」と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」、「私は本多氏が記者としての性根をすえて真実を探究しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」などの記述があることは当事者間に争いがなく、右記述が原告の社会的評価を低下せしめるものであることは明らかである。
そして、本件評論部分が、公共の利害に関するものであることは、前示四のとおりであるから、右の記述についての根拠・相当性について判断する。
1 前示第二、一の事実、<書証番号略>、検証の結果(平成二年一二月四日実施分)、被告殿岡本人尋問の結果によれば、被告殿岡が本件評論部分を執筆した根拠につき、次の事実が認められる。
(一) 被告殿岡が、本件著作部分を執筆する直接の契機になったのは、昭和五三年九月二六日にアメリカ合衆国ロスアンゼルスにおいて、マン・ジャック師に会い、同人から本件事件について、説明を受け、殿岡テープを入手したことにある。マン・ジャック師の説明によると、焼身自殺をする僧侶、尼僧らが、その直前に最後の勤行をし、自殺する理由を述べたが、右テープは、その様子を付近の村人が録音したものである、とのことであった。
(二) 被告殿岡は、日本に帰国後、殿岡テープをベトナム留学生に翻訳させるなどして検討を加えた。このテープの翻訳によると、テープには、「仏法を守るため、僧尼の名誉を守るため、そして三宝を守るために焼身自殺を決意しました。」「南ベトナム共和国臨時革命政府と南ベトナム開放民族戦線に対して、宗教の自由を正しく尊重するように心から呼びかけます。」などと本件事件がベトナム戦争後のベトナムにおける宗教政策に対する焼身自殺であることを示す発言があり、その最後に一二人の名前を読み上げる部分があった。被告殿岡は、右テープの存在に加え、「二六人を妻にしていた。」など本件著作部分に引用されている話自体にも記載自体信じ難いものがあると感じ、本件事件が、既に朝日新聞で報じられていたとおりの宗教弾圧に対する集団焼身自殺であると信じた。
(三) 被告殿岡は、殿岡テープの内容を公表し、本件事件の真相が「焼身自殺」か「無理心中」かについて論争を挑むつもりで本件評論部分を執筆し、本件評論部分の最後の見出しを「真実の探究」とし、「もしこれが本当に“セックス・スキャンダル”であったというのであれば、私は本多氏に詫びたうえで、ベトナムについての考え方を改めたい。」と記述した。また、被告殿岡は、原告が自らの調査結果に基づき、「足で書く」記者として、社会的に高い評価を得ていたのに、本件著作物においては、ベトナム当局の情報をそのまま伝達したに過ぎないその執筆姿勢を批判した。
2 本件評論部分の原告に対する批判は、本件著作部分に係る原告の執筆姿勢及びその取材内容の信憑性に関わるものであるところ、本件著作部分の無理心中であるとの見解がベトナム当局からの言い分をそのまま記事にしたものであることは、原告本人尋問の結果において、原告自身自認するところであり、<書証番号略>の記述自体によっても明らかである。また、その取材内容の信憑性については、被告殿岡が、その信憑性を疑ったことには、前示のとおりの根拠があり、特に、マン・ジャック師との会見の結果及び殿岡テープの存在は、本件事件を焼身自殺とする相当な資料であるということができ、被告殿岡が、これを信じ、本件記事内容の信憑性を疑ったことは、相当な根拠があったものというべく、右記述については、違法性を欠くものというべきである。
原告は、殿岡テープが一聞して不自然に編集し直されているとし、原告がマン・ジャック師から入手したとする録音テープ(以下「本多テープ」という。)を提出したところ、<書証番号略>、検証の結果(平成二年一〇月二日実施分及び同年一二月四日実施分)によれば、原告は、本訴提起後である昭和六二年八月ころマン・ジャック師に手紙を出し、本件事件の真相を知るために必要であるとして、マン・ジャック師保管の録音テープの送付を求め、同人から、昭和六二年一一月ころ、本多テープの送付を受けたこと、当時、マン・ジャック師の下には、本件事件に関する複数のテープがあり、原告に送付したものは、被告殿岡に送付したものとは異なるものをコピーしたものであったことが認められるが、被告殿岡が本件評論執筆当時本多テープの存在(複数のテープの存在)を知っていたとは、認められない上、本多テープの存在によっても、殿岡テープの信憑性を左右するものではない。また、検証の結果(平成二年一二月四日実施分)によれば、殿岡テープには、録音の中断、再開に際して、生じたと思われる機械音が録音されており、右テープに係る録音が連続してなされたものでないことが認められるが、これによっても、右テープが改ざん又は恣意的に編集し直されたことをうかがわせるものとはいえず、未だ殿岡テープの信憑性を左右するものではなく、他に被告殿岡が本件評論部分を執筆した根拠については前示判断を覆すに足りる証拠はない。
次に、被告殿岡は、本件評論において、本件事件についての被告殿岡の前示の事実認識を前提とし、原告が事実の確認をしないまま、できないまま、これを公表したという執筆姿勢を非難している。その論拠は、被告殿岡本人尋問の結果によれば、原告が事実調査を積み上げた上で、すなわち、自らの「足で書く」記者として高い評価を得ていたという被告殿岡の認識の下に、また、報道記事について「事実かどうか判らぬものを活字にするなどといったことが許されるはずはない。」との被告殿岡の見解を前提とし、本件著作部分がかかる事実の確認のないまま、できないまま報道記事として公表したことを批判したことが認められるが、本件著作部分が愛国仏教会というベトナムの当局者であるハオ師の発表をそのまま記述したものであることは、前示のとおりであり、また、被告殿岡が原告の業績についての評価を右のごときものとし理解することには、それなりの根拠があったことは、<書証番号略>及び弁論の全趣旨によって是認でき、右のごとき根拠がある以上、被告殿岡が前示の自己の見解に基づいて、本件著作部分に係る原告の執筆態度を批判することは、評論者の言論の自由の範囲にあるものとして、許されるものというべきである。
もっとも、本件評論部分の中には、「インチキ臭い」、「なげやりな書き方」、「ハノイのスピーカー」、「報道記者としての堕落」、「本多記者は筆を折るべきである。」などのかなり激烈な表現が用いられ、やや措辞適切を欠くきらいはあるが、これらは、「もしこれが本当に“セックス・スキャンダル”であったというのであれば、私は本多氏に詫びたうえで、ベトナムについての考え方を改めたい。」との前示記述と相まって、本件評論部分の評論のテーマである取材内容の信憑性又は執筆姿勢を疑うことを表す比喩的又は挑戦的な表現として用いられているのであり、右の評論内容に前示のとおり相当な根拠がある以上、その表現方法に若干適切でない部分があっても、右が原告に対する人身攻撃にわたるなど、評論における許容限度を逸脱した表現とは認められず、これをもって違法とすべきではない。
3 原告は、殿岡テープの信憑性を争い、薄弱な根拠でもって原告の著作物を批判している旨の主張をしているが、殿岡テープの入手過程は、前示のとおりであって、被告殿岡が本件評論を執筆した当時において、この信憑性を疑うべき何らの事情もなかったのであるから、被告殿岡がこれを信じたことを咎めるべきではない。
4 したがって、本件評論部分が違法であることを理由とする損害賠償請求及び謝罪広告の請求は、いずれも理由がない。なお、原告は、被告堤については、原告と被告文春との間の反論文掲載契約の侵害の違法をも主張するかのごとくであるが、<書証番号略>、原告及び被告堤各本人尋問の結果によれば、被告文春において、「諸君!」への掲載の許否は編集長の判断に委ねられていたこと、被告堤が本件評論が「諸君!」に掲載された後である昭和五六年六月号から「諸君!」の編集長の地位にあったこと、「諸君!」の編集部の投書欄担当者が原告に対し「あきれた先生」と題する投書について同年四月二七日ころ「次号(七月号)に掲載する予定」との回答をしたこと、被告堤が右投書を掲載しないとの決定をし、同年六月一八日ころ原告にその旨の回答をしたことが、認められるが、右の経過によっても、原告と被告文春間に反論文掲載契約が締結されたとは認められず、他にこれを認めるに足りる証拠はない。したがって、原告の右主張は失当である。
第三反論文掲載請求権についての判断
原告は、本訴において、損害賠償、謝罪広告のみでなく、別紙の反論文を月刊雑誌「諸君!」に掲載することを求めている。原告は、その主張の論拠として、民法七二三条、著作権法一一二条、一一三条を主張しているので判断する。
一反論文掲載請求が許されるか否かは、これを許される要件及びその効果に関係する。原告が反論文掲載権の内容、要件について、「新聞紙等の記事に取り上げられた者が、当該新聞紙等を発行する者に対し、右記事に対する自己の反論文を当該新聞紙等に無修正かつ無料で求めることはできる。」とするのは、これを許す立法を欠く我が国の法制上認められる余地はない(最高裁昭六二年四月二四日第二小法廷判決・民集四一巻三号四九〇頁)。また、著作権法一一二条、一一三条は、著作者人格権等を侵害する者に対し、侵害の停止を求めることができることを定めており、この差止請求権を実行あらしめるため侵害物の回収等の作為を請求しうる場合もあるが、反論文の掲載は、このような差止請求を実行あらしめる措置とは性質を異にするものであって、著作権の右規定が反論文掲載請求権を認めているとは解されない。
二しかし、民法七二三条は、名誉侵害の不法行為については、「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」を命じ得ることを認め、また、著作権法一一五条は、故意又は過失により著作者人格権を侵害した場合に、「著作物であることを確保し、又は訂正その他著作者の名誉若しくは声望を回復するために適当な措置を要求できる。」ことを認めている。右の処分又は措置としては、通常は、謝罪広告又は謝罪文の交付であるが、これに代えて又はこれと共に、反論文を掲載するが有効、適切である場合には、反論文掲載請求が許容されることもありうると考えられる。しかし、そのためには、その前提として、名誉侵害行為が、民法上の不法行為に当たることを前提とする(前掲最高裁昭和六二年四月二四日第二小法廷判決)ところ、本件評論部分が違法性を欠くものであり、したがって、民法上の不法行為ともみられないことは、前示第二に説示したとおりである。したがって、その余の点について判断するまでもなく、反論文掲載請求は、失当である(証人筑紫哲也の証言によれば、他人の論稿を対象とする雑誌記事について、その対象とされた論者から反論文の掲載要求がなされ、これに応じた例がかなりあることが認められ、これが言論の自由の広場の観点から望ましいマスメディアの在り方であるとはいい得るが、そのことが、かかる権利を裁判上の請求権として認める根拠足りうるものではない。)。
第四結び
以上の次第であって、原告の本訴請求は、いずれも理由がなく、失当であるから、棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官筧康生 裁判官深見敏正 裁判官寺本昌広は、差し支えのため、署名、押印をすることができない。裁判長裁判官筧康生)
別紙原告の主張
第一章 本件訴訟の意義と法的構造
第一 本件訴訟の意義―原告はなぜ本件訴訟を提起したか
一 民主主義社会における表現の自由
1 表現行為の意味
表現の自由が、現代社会において、もっとも重要な基本的人権のひとつであることについては、日本国憲法二一条の規定をまつまでもなく異論のないところであろう。
他の動物から人間を分つ定義として、これまでにさまざまな言い方がなされてきたたが、「自己を表現する手段をもつ」ことも人間の大きな特徴といえよう。もっとも音声言語がそうであるように、人間の場合は他の動物よりもその手段が特別に発達しているということであって、他の動物は表現行為がゼロだというわけではない。しかしたとえば言葉を奪われた人(聾唖者)が言葉を使わずに別の手段で自己を表現するようなことは人間以外にはほとんどできず、表現行為なしには人間は生きることさえできないであろう。生存のよりどころを精神の安定におく部分が他の動物より圧倒的に強い人間にとって、表現行為の極端な制限は生存の根幹をおびやかす脅威ともなりうる。
しかしながら、古代奴隷制社会に典型をみるように、「表現の自由」を一定のワク内に閉じ込められた多数の不平等な人口をかかえる社会では、そのワクを踏み出しさえしなければ最低限の生存はできた。それはしかし、「人間の特徴」を欠いた存在としてであり、もはや『動物農場』(ジョージ・オーウェル)の世界でしかない。古代ギリシャで表現の自由を謳歌したギリシャ人たちは、表現行為を奪われた多数の奴隷の上に存在していたのであって、これも一種の『動物農場』的社会であった。
人類の歴史がすべて進歩の過程だったとはいえないにしても、現代になるにつれて表現行為を公的生得的にきびしく制限された階層が減少してきた点に関しては、ひとつの進歩だったということができよう。すなわち、少なくとも「現代の国家」といいうるためには、人間の特性としての表現行為が制限されるような社会であってはならない。
2 表現の自由について
個人と組織とを問わず、また形式やメディアを問わず、「表現の自由」は民主主義社会・自由社会が健全に機能するための核心ともいえる重大な要素である。表現の自由が存在せぬ典型的な社会は、古代以降では封建社会に、現代ではファシズム国家にみられるように、最終的には大量虐殺などのおそるべき結果をもたらすことになってゆく。したがって現代国家においては、表現行為が自由におこなわれているかどうかが健全な社会あるいは民主主義社会かどうかの指標となっているのである。表現の自由にかげりが出てくるとき、それは民主主義社会・自由社会の崩壊する予兆であり、警鐘ともみることができよう。
しかしながら、表現の自由が失われるということは、その社会のすべての人々に表現の自由がなくなるということではない。権力者または権力側に立つ人々の表現の自由だけが異常に肥大し、支配される側や反対制側―結局は一般大衆にそれが一方通行で伝わるだけの状況を意味する。最近の歴史ではヒトラー政権下のドイツやポルポト政権下のカンボジアにその極端な実例をみることができる。どのように立派な政権であろうと、理想的にみえる政治形態であろうと、腐敗や誤謬の可能性が皆無ということがありえない以上、それを批判するための表現の自由が常に保たれる保障が機能していなければならない。
3 報道の種類・方法
(一) ところで、報道とは情報の伝達をいうが、いわゆるニュースの報道は新井直之教授が指摘するように、「多くの場合、人から取材することから始まる。言いかえれば、取材とはすなわち人にインタビューすることであることが多い」のである(<書証番号略>―新井直之『意見書』。以下、単に「新井意見書」という。)。
しかもニュースのほとんどが『予定することができないニュース』(たとえば、交通事故のような事故)などであるため、記者は、おおむね当事者などに取材―たとえば事故が発生したような場合、目撃者などにインタビューするという方法で取材する―ことになるのである。このようにニュースを取材するためのインタビューは「ニュースインタビュー」と呼ばれる(新井意見書)。
本件著作物におけるティエン・ハオ師との会見は、この「ニュースインタビュー」に属する。この「ニュースインタビュー」は、後の項で詳しく述べるいわゆる「発表モノ」と同旨である。
(二) 「ニュースインタビュー」は、出来事について知るために、当事者や関係者に直接会って話を聞くことである。しかし、
「インタビューの内容は、必ずしも事実を正確に語っているかどうかは保証され得ない。そのため記者は取材にあたって、できるかぎり多くの当事者や関係者にインタビューして、それらの談話や会見の内容を付き合わせることによって、事実に接近する努力が要請されるのである。
しかし、報道という行為は、他の文章を書く行為と違って、常に締め切りを持つという特徴がある。締め切り時刻に遅れれば、その報道は一切の価値を失うことが多い。そのため報道における取材は、常に時間的制限の中で行われなければならない。あるいは、刑事事件の被疑者のように、当事者との面接が許されず、不満足ながら一方的な取材だけで記事化しなければならないこともある。次から次へと取材が相次ぐために、やむを得ず取材を不完全なまま打ち切らなければならないこともあり得る。できるかぎり多くの当事者関係者に取材すべきであっても、それが不可能である場合が少なくないのである。それらの場合、記者はやむを得ず、当事者ないしは関係者の談話を正確に引用するだけに止め、その談話内容が『事実である』とは断定しない。判断を留保するわけである」(新井意見書)。
(三) 要するに、正確な事実関係が不明の場合でも、問題の性格によっては関係者の発表をそのまま報道することがある。
このような場合、記者報道者の見解が加えられていないことが明らかになるように配慮しなければならないのは当然であるが、これが記者報道者の見解でないことは、ジャーナリズムの初歩的な常識である。
「新井意見書」が、「インタビュー対象の談話をそのまま報道すること(が)、すなわちその談話内容が記者の意見なのである、とされるならば、今後ジャーナリズムにおいて、一切のインタビュー報道が不可能になる。談話を伝えることはつまり記者が『自分でそう言いたいことを言ったのだ』とされるならば、談話を直接的にせよ間接的にせよ、報道することが今後全くできなくなる」というゆえんである。
4 批判の自由と責任について
(一) 表現の自由が以上のようなものであれば、その「自由」と「責任」がタテの両面として不可分のものであることも明白である。「自由」の一面だけでいうならば、批判には限界もなければ制限もなく、いかに鋭くかつ徹底的に追及することも自由でなければならない。だがそれに必然的かつ不可分にともなう責任として、批判の基礎たる事実関係は正確でなければならず、いわんや改竄や歪曲・捏造は絶対に許されない。誤った事実や捏造による冤罪への死刑判決などが許されないのと同次元の、むしろきわめて単純明白な原則である。したがってこのような責任をもたず、表現の自由の原則を逸脱した「批判」はもはや批判ではありえず、詐欺・強盗の類と全く変わらぬ単なる破廉恥な違法行為にすぎなくなる。ただ、これがマスメディアを場として行われた場合は、そのような言論上の違法行為の被害救済策として、同じメディア等での訂正なり反論なりが、今日の民主主義社会におけるジャーナリズムではほぼ確立している。改竄や捏造は別にして、時間的制約や過失による誤解・誤引用が避け難いジャーナリズムでは、長い試行錯誤の歴史をへてその救済策がようやく現在の水準にまで達したのである。「新井意見書」などにみられるように、このような原則は欧米先進国では日本よりはるかにきびしく、改竄などによる名誉毀損に対しては莫大な損害賠償金の支払を命じた判決がめずらしくない。
以上のように見てくるならば、マスメディアの場で改竄をもとにして非難中傷が勝手気ままに行われ、それに対する被害者の救済策が講じられない場合、すなわち訂正なり反論なりがメディアによって一切拒否されるという事態がいかに重大な意味を持つかは容易に理解されよう。それは表現の自由を核とし生命ともする民主主義社会への挑戦であり、何の誇張もなくファシズムへの道である。このように無責任な「ペンの暴力」は、肥大せぬうちにその挑戦を退けなければならない。さもなければ、脆弱な側面をもつ民主主義社会の息の根はいとも簡単に止まるであろう。
(二) さて、右に述べた批判の基礎たる事実関係は正確でなければならないという趣旨は、書かれた文章を引用するに際し、「原文を削ったり足したり歪めたりしてはならず、正確に引用しなければならないのはむろんのこと」、「文脈を歪めることなく、正確に引用しなければならない」ということにほかならない(新井意見書)。
原告は、すでに一九八五年三月一二日付け準備書面において、立花隆氏の表現を用いて、「引用の条件」をあげたが、ここに再述すると、「引用の条件」とは、「(1)引用の仕方において正しい引用であること (2)引用された内容が客観的に正しいこと (3)その引用が論理的に正しく論証の一部を構成していること」をいう。同氏は、このような条件に違反したものを「イカサマ論法」であると揶揄するが、これは「人の発言をねじまげて引用して、人がいっていないことをいったことにして論理をすすめるたぐいの論法である」(<書証番号略>立花隆『ロッキード裁判を切る』朝日ジャーナル一九八四年一〇月一二日号―この「イカサマ論法」は、そっくりそのまま本件評論にあてはまるではないか)。
(三) 以上述べたように、「談話であれ文章であれ、引用は正確でなければならないというのは、文章を書くものの基本であ」り、「永い年月にわたってジャーナリズムでは基本であった。誤引用は厳しくとがめられなければならない。もし誤引用が肯定されるならば、あらゆる報道は信のおけないものとなり、事実が不明確となり、談話者原文筆者の人格は傷つけられることになる」のである(新井意見書)。
筑紫哲也氏も、その証言の中で、引用について同旨の見解を述べている(証人筑紫哲也証言調書一五丁以下)。
5 マスメディアに携わる者の責任
(一) 報道の自由は、批判の自由を含むものであるが、その批判の基礎たる事実関係が正確であることを前提にするものでなければならない。事実関係が不正確であるにとどまらず、原著作に対する改竄や歪曲・捏造に基づく「批判」が、新聞・雑誌・単行本・放送などのマスメディアを舞台になされたとき、その被害は甚大かつ深刻である。なぜならマスメディアは、広範かつ多数の読者等に情報を流布させることをその属性とするからである。この意味で、マスメディアには、その影響力にふさわしい責任があるというべきである。
このように、「送り手」側のマスメディアにはきわめて強い影響力があるのであって、マスメディアの側に誤引用や前提事実の捏造があった場合には、仮にマスメディアに悪意がなかったとしても、それをもとに批判された者に取り返しのつかない被害を生じせしめることになるのである。マスメディアは、その基本的性格において「送り手」から「受け手」へという情報の一方通行性がつよいため、「送り手」側の意図が一方的に広範囲の公衆に伝えられる。マスメディアが情報の流布機能を独占し、市民にそうした手段が存しない条件の下では「送り手」側たるマスメディアの責任はきわめて大きいといわなければならない。
(二) 情報の流布機能を持たない市民が「批判」に名を藉りた非難攻撃をされた場合、「表現の自由」を認められていたとしても、これを伝達する手段がない以上、実質的には表現の自由が失われていることとなんらの違いもないことになるのである。
このような実態を背景として、「情報の受けて」として受動的な立場に置かれている一般市民に、実質的な表現の自由を取り戻せることは、その市民による反論によって可能になるのである。
これが、いわゆる「アクセス権」である。後に詳述する反論権は、この「アクセス権」の中核をなす。
とりわけ、事実誤認や改竄・歪曲をもとにした非難攻撃が行われた場合には、反論文の掲載は実質的な被害の回復という見地からみても特にその必要性は高い。
(三) 以上に述べたマスメディアの責任については、つまるところ、いわゆるマスメディアに携わる者に課される以下の義務を除外しては成り立ち得ない。
すなわち、マスメディアに携わる者は、とりわけ、一方の表現の自由が他方の表現の自由を犯すおそれの有無についてきわめて慎重でなければならない。換言すれば、マスメディアに携わる者には、その伝える内容に改竄や捏造は勿論のこと、事実誤認のないよう細心の注意を払うことが要請され、もしその情報に事実誤認や改竄・捏造が存した場合には、直ちに訂正し、あるいは被害を受けた者からの反論に応じなければならない義務があるというべきなのである。その意味で、マスメディアに携わる者には、特別な責任と配慮が要求されるのである。
二 本件訴訟提起の意義
いままで論じてきたところから、被告文春発行にかかる『諸君!』誌というマスメディアの場で、改竄をもとにして行われた誹謗攻撃に対し、原告の求めた訂正あるいは反論が被告文春、被告堤らから一切拒否されたことの重大な意味は容易に理解されよう。それは、まぎれもなく表現の自由をその核とする民主主義社会への挑戦であり、右に述べたようにファシズムへの道の地ならしにほかならないのである。
「新井意見書」が、「本件裁判の結果がジャーナリズムに及ぼす影響は極めて重要」と指摘するゆえんである。
この項を終えるにあたって、原告が本法廷で冒頭に陳述した「私はこの裁判をなぜ重視するか」の結びの部分を改めてここに引用しておく。
「ことは重大であっても単純です。いったいどうして、私が書いてもいないことをもとに私が中傷され」、それに対して「なぜ訂正も反論も不可能なのでしょうか。文春(『諸君!』)の読者が私について虚偽の情報を宣伝されたまま放置されても、なぜ私はそれをただすことができないのでしょうか。」
本件訴訟は、このように民主主義社会を守るか否定するのかという根源的な意味を背景とするのである。
第二 本件訴訟の法的構造
本件訴訟における原告の主張の法的要点は次のとおりである。
一 当事者
1 原告
原告は、朝日新聞の記者であり、現在同社の編集委員の職にあるものである。原告は本件著作物を執筆刊行した。原告は本件著作物の一七六頁以下で、本件事件につき、愛国仏教副会長ハオ師が共同記者会見で語った内容を原告の見解を混えない報道として紹介した。
2 被告
(一) 被告殿岡は、被告文春発行月刊雑誌『諸君!』一九八一年五月号に本件評論を執筆掲載した。本件評論の中では、本件著作物に対し、非難、中傷を加え原告の名誉を傷つけた。
(二) 被告(株)文春は、被告殿岡の本件評論を掲載した雑誌『諸君!』の発行会社である。
(三) 被告村田は、被告文春の社員で、一九八一年三月まで右雑誌の編集・発行人の地位にあったものである。本件評論は、被告村田が編集・発行人であった時期に企画・編集・発行されたもので、編集掲載された本件評論について、その内容について責任を負う立場にあった者である。
(四) 被告堤は、被告文春の社員であり、一九八一年四月から被告村田を引き継いで右雑誌の編集・発行人となった。一九八六年六月までその地位にあり、この間本件評論をめぐる反論文の掲載などについて原告と折衝してきた。その過程で、右雑誌上に本件評論に対する原告の反論文を掲載することが既に、右雑誌の編集部を通じて被告文春との間で約束されていた。この約束は、違法な本件評論の掲載により、原告が取得した本件評論に対する反論文掲載請求権(反論権)行使を承諾した意味を有するものであったが、被告堤は原告の右反論権行使を妨害したものである。
二 被告らの違法行為の概略
被告らの原告に対する違法行為の態様、内容については、それぞれの箇所で評論するが、概略的にこれを明らかにする。
1 被告殿岡の違法行為
被告殿岡は、原告が本件著作物の中で、「発表もの」として記述した文章を、本件評論において原告の見解であるとし原告を非難、中傷した。
(一) 民法七〇九条該当性
原告は、①本件著作物において、本件事件に付き、ハオ師が語った内容を原告の見解(判断)を混えない報道(発表もの)として紹介した。②ところが被告殿岡は、右報道を原告の見解だとする架空の事実を作出し、この事実を前提に原告を非難、中傷した。③非難、中傷は被告殿岡本件事件の認識が正しく「この重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに断定して書いて」おり、「これは報道記者としての堕落で」あり「誤るにも誤り方があるというもので一二人の殉教者を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳できまい。本多記者は筆を折るべきである」などというもので、評論、批判の範囲を逸脱し、最大限の悪罵(非難、中傷)を弄しているのである。
更に、この非難、中傷は被告殿岡が入手したとする本件事件の録音テープに基づいている。しかしながら同被告は、この録音テープの真偽を確かめないまま(一聞しただけでテープが不自然に編集され直している疑いがあることが歴然としているにもかかわらず)これをうのみにして、原告への非難中傷の根拠としているのである。被告殿岡のこのような行為は原告のジャーナリストとしての地位、声望の失墜を意図した誠に許容しがたいものである。
被告殿岡の右行為は、原告の名誉を著しく毀損するものであるから民法七〇九条以下の責任を免れない。
(二) 著作者人格権の侵害
著作権法三二条一項は「公表された著作物は、引用して利用することができる。この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるのでなければならない」と定め、同法二〇条は著作者の著作物に対する同一性保持権として「その意に反してこれらの変更、切除その他の改編を受けない。」ことを保障している。本件評論は、原告の本件著作物に対して有する同一生保特権を損うものであり、著作者人格権を侵害するものである。
また、同法一一三条三項は「著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を引用する行為は、その著作者人格権を害するものとみなす」と規定する。被告殿岡の本件評論は「批評……その他の引用の目的上正当な範囲」を逸脱していることは前述の内容から明らかであるから、原告の著作者人格権を侵害する違法行為である。
2 被告村田の違法行為
被告村田は、雑誌『諸君!』の編集・発行人として、編集及びその発行について責任を負う立場にある。同被告はその立場において、被告殿岡の本件評論の掲載を企画実施したものである。企画、編集者として、本件評論の内容を知りもしくは知り得る立場にあった被告村田としては、本件評論の本件著作物にかかわる部分の掲載を中止すべきであったにもかかわらず、これをしなかったばかりか、その内容を知りながら敢えてこれを掲載したものである。したがって、被告殿岡と共同して民法上の不法行為責任及び著作権法上の著作者人格権の侵害としての違法行為責任を免れることはできない。
3 被告堤の違法行為
被告堤は本件評論の企画掲載については関与していなかった。しかし、一九八一年四月以降『諸君!』の編集発行責任者となった。
ところで、原告は被告殿岡らの違法行為により被告文春に対して本件評論に対する反論文掲載請求権(反論権)を有するに至り、かつ、被告会社は同雑誌に原告の投稿文の掲載を約束していた。しかるに、被告堤は同雑誌の編集発行責任者としての地位を利用し、原告の被告会社に対する反論権の行使を妨害した。そのため原告は反論権行使によって回復さるべき名誉権などが侵害状態に置かれている。被告堤のかかる行為は、原告の被告会社に対する反論権たる債権の侵害行為であるから民法上の不法行為(七〇九条)を構成する。
4 被告文春の違法行為
被告文春、本件評論掲載誌である月刊誌『諸君!』を発行しており、被告村田・同堤の使用者である。被告会社は違法な本件評論掲載誌の発行社としてその責任を免れることはできない。また、被告村田、同堤の使用者としての、さらに被告殿岡とは共同不法行為者としての責任を負わなければならない(民法七〇九条、七一五条、七一九条)。右と併せて被告殿岡と共同して著作権法上の著作者人格権侵害の責任を負わなければならない(著作権法三二条、二〇条、及び同法一一三条三項)。
三 被告らの法律上の責任
1 被告文春の月刊誌『諸君!』への反論文掲載義務の存在
(一) 反論文掲載請求権(反論権)の根拠
他人の違法行為によって名誉、人格上の権利を侵された場合、これを回復する措置を加害者に対して請求できることは現代法における普遍的原則である。雑誌、新聞など特定のマスメディアが、掲載した評論、論文などにより他人の権利を侵害したとき、被害者の救済としては損害賠償、謝罪文の請求ができることは当然であるが、名誉、人格上の侵害に対しては、当該評論、論文などの掲載誌を通じて反論する権利を保障することが効果的な手段のひとつとなる。なぜなら、特定の雑誌などに掲載された違法な評論などから読者が受けた影響を消去をするためには、同一雑誌に被害者が反論文を掲載することによってある程度可能だからである。これによって回復される名誉、人格上の利益は損害賠償や謝罪以上に大きい。そのために保障された権利が反論権である。反論権は違法な評論などを掲載した雑誌などの発行社に対する権利であり、民法、著作権法により認められた実定法上の権利である。
(二) 原告の被告会社に対する月刊誌『諸君!』上での反論権の存在
(1) 民法七二三条を根拠とする請求民法七二三条は名誉毀損行為に対し「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命ズル」ことができる旨定めている。一般には謝罪文が考えられるが、謝罪文は加害者が被害者に対してなすものであり、十分意を尽くすことができず一定の限界がある。謝罪文のみでは不十分な場合、本件のような反論文の掲載によって「名誉ヲ回復」することができる。同法条は広く適当な処分を命ずることができると定めているから、この規定は反論権の根拠となる。原告の反論文請求の根拠のひとつは本条を根拠とするものである。本条による反論文の掲載を選択した場合に、裁判所はこれを認めるべきである。
(2) 著作権法一一五条を根拠とする請求 同条は「著作者は……著作者人格権を侵害したものに対し……著作者であることを確保し、または訂正その他著作者の名誉もしくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。」と規定する。本条は被害者に対し反論権を含む被害の回復措置を保障した規定であると解される。
(3) 原告は、被告文春に対し、民法七二三条、著作権法一一五条にもとづいて侵害された原告の名誉、著作者人格権を回復するために必要な反論文を不法行為誌である『諸君!』に掲載する権利を有する。民法、著作権法上の請求権を並列的に請求するものである。
(三) 反論文の内容
原告が請求する反論文は、侵害された原告の名誉、著作者人格権の回復に必要な被告殿岡の違法な本件評論を正すための反論文でその内容は別紙のとおりである。
2 月刊誌『諸君!』誌上への謝罪文の掲載
謝罪文の請求は被告ら全員に対して請求するものであり、被告文春及び被告殿岡、同村田に対するものと被告文春、被告堤に対するものでは不法行為の内容が異なるのでそれぞれ別の内容となる。
(一) 謝罪文掲載の根拠 被告文春、被告殿岡、同村田関係
(1) 民法七二三条を根拠とする請求同条は名誉回復のための適当な処分を命ずることができる旨定めており、この処分が謝罪文を含むことは争いがない。謝罪文は、違法な本件評論を掲載した被告文春の月刊誌『諸君!』誌上に掲載されるのが最も適切である。ほぼ同じ層の読者にその内容が伝達されるからである。
(2) 著作権法一一五条を根拠とする請求 同条は著作者人格権の内容たる名誉もしくは声望の回復のため適当な措置を採る権利を被害者に保障している。謝罪文の掲載はその最も普遍的な手段である。よってこれが掲載を月刊誌『諸君!』誌上に求めるものである。
(3) 謝罪文と反論文掲載との関係反論文は原告がその名において行うものであり、謝罪文は被告が被告の名において行うものである。救済の趣旨は同じでもその手段は異なる。本件のごとき不法行為の場合には両者の掲出により初めて名誉、声望の回復が可能であるのでこの両者を本訴において請求するものである。なお両者を並列的に請求するものである。
(二) 謝罪文の根拠 被告文春、被告堤関係
その根拠は民法七二三条によるものである。
(三) 謝罪文の内容
被告らにつきそれぞれ別紙謝罪文(一)、(二)記載のとおりである。
3 損害賠償の請求
被告らの原告に対する前述したそれぞれの違法行為に対し損害賠償の請求をする。
被告殿岡、同村田、被告文春に対しては民法七二三条、著作権法一一五条により反論分(被告会社)、謝罪文(右各被告)と併わせ損害賠償を請求するものである。
被告堤、被告文春は債権侵害としてその不法行為責任を免れ得ないので、民法七二三条により謝罪文の請求のほか損害賠償の請求をするものである。
この損害は計り知れないが、原告に対して被告殿岡、同村田、被告文春は連帯して金一〇〇〇万円及び弁護士費用金一〇〇万円を、被告堤、被告文春は連帯して金一〇〇〇万円及び弁護士費用金一〇〇万円を支払うのが相当である。
第二章 本件不法行為と適切な被害回復措置
第一 被告文春の原告に対する一連の攻撃
一 最近の攻撃例
1 <書証番号略>(A)は、一九八八年一二月一五日号の『週刊文春』の電車中吊り広告を縮写したものである。また<書証番号略>(B)は読売新聞に掲載された同じ『週刊文春』の広告である。
Aを見ると広告の最主要部である右端トップに当該広告全体のほぼ四分の一もの面積を占める。
“創作記事で崩壊した私の家庭”
朝日・本多勝一記者に当てた痛哭の手記
という文字(このようなものは一般に「惹句」と呼ばれている)が躍っている。またBでは右惹句は、当該広告面積の約三分の一、『週刊文春』という雑誌名を除けばそれ以上の面積を占めている。
また、右『週刊文春』の目次(<書証番号略>)を見ても、全部で約二〇〇頁ある中で、これがトップ記事として大きく掲記され、ここでも、右の「“創作記事で崩壊した私の家庭”朝日・本多勝一記者に宛てた痛哭の手記」との「惹句」が繰り返して用いられているのである。
右広告文にある「痛哭の手記」なるものは、右『週刊文春』の発行直後に発行された『諸君!』一九八九年一月号に掲載された
南京事件「百人斬り」
「向井小尉の娘」の四十年
と題する、向井小尉の次女向井千恵子氏の手記(<書証番号略>)のことである。
2 この広告や目次では、
朝日・本多勝一記者
という文字の右側にちょうど並列させて、
“創作記事”で崩壊した私の家庭
という文字が記載されている。「朝日・本多勝一記者」が新聞記者であることは公知の事実である。新聞記者であれば「記事」を書くのは当然である。またそこには「朝日・本多勝一記者」以外に「記事」を書く筈のものは誰も記載されていない。とすると、この“創作記事”なるものを書いたのは「朝日・本多勝一記者」をおいていないことになる。
3 次にここに言う「創作記事」という言葉はいかなるニュアンスを持っているのか。「創作」という言葉には「はじめてつくること」といった意味のほか「つくりごと。うそ。」という意味もある(広辞苑第三版参照)。一般に「記事」は他の記事を丸写ししたものでない限り「創作したもの」である。つまり「創作」なる文字を付加することによって、「創作記事」という言葉は「でっちあげ記事」とか、「捏造記事」というニュアンスを持つに至るのである。「創作」という文字の持つこのニュアンスは、それに続く「……で崩壊した私の家庭」という言葉で広告意図は決定的なものとなっている。この部分によって「創作」という文字の良からぬニュアンスの部分を用いていることがいよいよ明らかになるからである。
このように右の広告や目次の記載は、
朝日、本多勝一記者の「でっちあげ記事」によって家庭を崩壊させられた者が、本多勝一記者に宛て書いた「痛哭の手記」
というメッセージを表現したものということになる。
4 むろんこれは事実と相違する。しかし右広告に驚いて『週刊文春』(<書証番号略>)を買い、その部分を読んでみても、なお右広告や目次が事実と相違しているかどうかがよく分からないような巧妙な書き方をしている。なるほど、注意深く読んでみるとようやく右の「創作記事」というのは「朝日、本多勝一記者」の書いたものではなく一九三七(昭和一二)年一一月から一二月にかけて当時の『東京日日新聞』に掲載されたいわゆる「百人斬り競争」の記事のことを指しているかのようにとれる部分もある。しかし、全体の論調は、あたかも「朝日・本多勝一記者」が、「でっちあげ記事」を書いたかのようにもとれる記述の仕方をしているのである。これはまことに嫌悪すべきトリックである。しかもこのトリックは、右の『週刊文春』を読んでも必ずしも分からないのである。
広告を見た者や、更に右『週刊文春』の記事を読んだ大多数の者はあたかも、本多勝一記者が「でっちあげ記事」を書き、このため誰かの家庭が崩壊したことを非難されていると印象づけられたまま残されるのである。
右の広告が掲載された読売新聞は九六七万部の発行部数を持っている。また右と同一の広告が毎日新聞(四一六万部発行)にも掲載されている。おそらくブロック紙にもほぼ同様の広告は掲載されたであろうし、首都圏で同様のデザインの電車の中吊り広告が、数日間JR線、地下鉄線等の主要路線に掲示され極めて多数の乗客がこれを目撃したものと推測される。
5 原告は、この『諸君!』及び『週刊文春』の記事について、一九八九年一〇月一一日に当の向井千恵子氏に会って直接話を聞いている。このとき向井氏は、
① 右『週刊文春』のタイトルを見て驚いたこと。
② 「ああいうタイトルは一番つけてほしくないタイトルだった」こと
を原告に語っており、被告文春が向井氏の心情を欺くようなことまでして、ひたすら原告を攻撃するために右のような記事を掲載したことは明らかである。
6 この『週刊文春』の記事中には、
一方本多氏の手記の感想を求めると、
「……突然こうゆう重大な問題について『感想なり反論なり』求められてもとても時間がありません……」
といった趣旨の一片の回答が寄せられた。
その本多氏について、千恵子さんは「憎しみすら覚えました」と感情の昴ぶりを隠さない。
という部分がある(<書証番号略>の記事の末尾)。これは『週刊文春』の記者から、『諸君!』に掲載される予定の向井氏の手記についての「感想なり反論なり」を求められた原告が、『週刊文春』に送付した「回答」(<書証番号略>)の一部を利用したものであることはたしかだが、原告の回答には以下のような条件が付けられていた。
「なおこの回答はもし引用するのであれば一切の削除も加筆もしないで下さい。」
しかし、『週刊文春』誌は、そういう原告本多の「回答」を記事化するに際しての条件を無視して、右のように勝手な引用を行ったのである。
二 本多攻撃の“発掘”“利用”
1 先に述べたように右の『週刊文春』の記事は、一九八九年一月号の『諸君!』に掲載された向井千恵子氏の「手記」の内容を紹介する形で書かれており、記事には『諸君!』一月号の写真まで掲載されている。
この『諸君!』の向井「手記」は、いわゆる「百人斬り」についての『東京日日新聞』の記事が「創作記事」であるとの前提に立って、原告が朝日新聞の「中国の旅」という連載の右に関する部分を“向井小尉の娘”という立場から非難するものであり、要するに“「百人斬り」について触れることによりより虐げられ続けた「戦犯の娘」をこれ以上いじめないでほしい”という趣旨のものにすぎない。つまりこの「手記」は「百人斬り」があったのか否かについてはその時点までにあれこれ言われていたことをなぞっただけで何一つ新たなものを付け加えていない。この「手記」の「売り物」というのは、事件当事者の娘の手記ということと、激しい本多勝一攻撃ということの二点なのである。
なるほど「百人斬り事件」については論争があった時期もあった。しかし、この「手記」が掲載された『諸君!』が発売された一九八八(昭和六三)年頃は、この論争も既に終息していた。にもかかわらず『諸君!』は突如、この「手記」を掲載したのである。
そもそも「手記」の執筆者の向井千恵子氏は、一般の人であって「手記」を読んでみても文章を書くのに得手な人とは思われない。『諸君!』編集部において何らかの意図を持って向井千恵子氏を“発掘”し“利用”したものと推測できるのである。
このことは、右の『週刊文春』における「手記」の取りあげ方からも裏付けられる。
右の『週刊文春』の記事では、この本多勝一攻撃は更にエスカレートしている<書証番号略>を一読すれば明らかなように、右「手記」の内容を紹介しつつ、全篇を激烈な本多勝一攻撃に終始しているのである。
そもそも「同じ会社であるとはいえ『諸君!』と『週刊文春』が取りあげたのは、手記を利用して更に本多攻撃をする意図があったからにほかならない。
2 このようにわざわざ被告文春が、原告本多に対する攻撃手を「発掘」して、『諸君!』を始めとする被告文春発行の雑誌に掲載するという手法は右の
“朝日・本多勝一記者に宛てた痛哭の手記”
だけではない。まさに本件評論にもこれと同じ手法が用いられているのである。
3 本件評論の基になったのは<書証番号略>の昭和五四(一九七九)年一月一五日付の『月曜評論』である。
本件評論は、これを読んだ被告文春の社員たる『諸君!』編集部(当時)の斉藤氏が被告殿岡に依頼して執筆させたものである。この『月曜評論』は一読してわかるように全部が原告本多攻撃の文章である。それ以外の記載部分は何もない。
とすると、被告文春が着目したのは、この記事が原告を攻撃しているからに他ならないということになろう。すなわち、被告文春は、これを『諸君!』誌上で再利用して原告を更に攻撃するために被告殿岡を『月曜評論』から“発掘”し、本件評論を書かせたものであることはまことに明らかである。
三 被告堤堯の原告に対する害意
1 被告堤の行為の違法性については別項(第二章第二)で詳述するので、ここでは同被告の原告に対する特別の害意を示す次の二点を指摘しておく。
2 まず、先に述べた「“創作記事で崩壊した私の家庭”朝日・本多勝一記者に宛てた痛哭の手記」という記事が掲載された『週刊文春』の表紙には
発行人 堤堯
と記載されている(<書証番号略>)。
この『週刊文春』は「昭和六三年一二月一五日号」である。週刊誌は実際発行される一週間後の日付を付けるのが通例であるから、この「昭和六三年一二月一五日号」が実際に発行されたのは昭和六三(一九八八)年一二月八日前後ということになる。
この二日前である一九八八(昭和六三)年一二月六日は、本件訴訟の第二〇回口頭弁論期日であり、証拠調べが行われた。
そしてこのときの証拠調べが他ならぬ被告堤の尋問だったのである。
これは注目すべき「符合」といわなければならないのではないか。
3 <書証番号略>の「株式会社文藝春秋の出版物による本多への批判文・攻撃文・中傷リスト」を見ると明らかなように、被告文春は約二〇年にもわたって執拗に原告対する攻撃・中傷を繰り返している。しかし、例えば一九七二(昭和四七)年頃には、必ずしも十分な形であったことは言えないまでも、ともかく原告本多の反論文を掲載してきていたのである。
被告文春は右のリストの番号1の『諸君!』(一九七二年一月号)ではイザヤ・ベンダサンと称する人物が、「朝日新聞のゴメンナサイ」で原告の新聞連載記事「中国への旅」への全面攻撃をはじめた。しかし当時の『諸君!』の「編集兼発行人」であった田中健五は、原告本多の反論文である「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」を同誌同年二月号に掲載した。
またその後も原告本多の反論に対するベンダサンの反訴「本多勝一様への返書」(同誌三月号)に関して、原告の再反論「雑音でいじめられる側の眼」を同誌四月号に掲載したのである。
そして、当時の『諸君!』の編集後記には、
「さいきん編集部への投書が急速に増えてきた。特にイザヤ・ベンダサン氏と本多勝一氏の論争が始まってからは、拍手を送ってくるものもあり、怒号を寄せてくるものありで、編集部としても張合いがある。両氏の論争も多少噛み合わないところがあったが、発想の対照の妙が呼び物になったらしい。これからも大いに論争の場を提供して、『諸君!』の売り物の一つにしていきたい。」
などとの記載もあり、当時の『諸君!』の編集長である田中健五は一方で原告を攻撃しつつも、他方で原告からの反論にも「論争の場を提供して、『諸君!』の売り物の一つにしていきたい」との姿勢をもっていたことが窺われるのである。
4 これに対し被告堤は原告本多を攻撃・中傷するばかりで、原告には一切の反論を許さなかった。<書証番号略>の「本多勝一への批判文・攻撃文・中傷文リスト」の中、番号四五・四七・四九・五一はいずれも『諸君!』であるが、これらは被告堤が「編集兼発行人」の時のものである。また同番号五二・五五・五七・五八はいずれも『文藝春秋』であるが、これらは被告堤が「編集兼発行人」又は「編集人」の時のものである。
このように被告堤が『諸君!』『文藝春秋』の誌面を利用して執拗に原告攻撃を繰り返しているのである。原告本多が本件評論に対して行なった『諸君!』の「読者諸君」欄への投稿(<書証番号略>)については、『諸君!』編集部で同誌の七月号に掲載の約束をしていた(<書証番号略>)にもかかわらず、被告堤は「内容から判断して掲載にあたいしない旨の判断」(<書証番号略>)と称して右掲載約束を破って原告本多の最低限の処置に過ぎない「訂正」さえ不可としたのである。
右の<書証番号略>の原告の投稿は、「読者諸君!」欄の投稿規定の「四百字詰め原稿用紙二枚以内」という制限に合致する、字数にしてわずか約二四〇字のものであり、内容は、本件評論について、原告本多の原文を対照して読んでほしい旨のものにすぎない。延々と攻撃中傷を加えられた被害者の反論としてはまことにつつましやかなものにすぎなかった。
逆に『諸君!』六月号の「読者諸君」欄(<書証番号略>)には、
「……(前略)……前号で殿岡昭郎氏“今こそ「ベトナムに平和を」”の犀利な論文に接し、わが国内の心情的左翼ハネ上り行動者たちに、気の毒さを覚えるというよりも、自由社会の畑にはびこったいら草のように感じられて、迷惑な思いを深くしたのであった。」(「自由社会のいら草」)
というような読者の投書を掲載しているのである。
この投書は被告堤が『諸君!』の「編集兼発行人」になった後のものである。このように被告堤は本件評論による原告本多への攻撃・中傷さらに追討ちをかけるかのような投稿を掲載しながら、前述のような原告のまことにつつましい投稿については『諸君!』編集部が既に成立していた投稿文の掲載約束を反古にしたのである。
被告堤の原告本多に対する特別の害意はまことに明らかであると断ぜざるを得ない。
四 被告文春の姿勢
1 原告に対する攻撃・中傷は執拗に反復しながら、これについての原告の反論を許さないという被告堤の姿勢は、むろん同時に被告文春の姿勢でもある。
2 被告堤は直接関与してはいないと思われるが、被告文春の右のような姿勢は、次の事実にも明らかに表われている。
<書証番号略>の「本多勝一への批判文・攻撃文・中傷リスト」の番号一、三、四、六、七、一〇、一三等は一九七二(昭四七)年一一月に『日本教について』という単行本(発行所被告文春)にまとめられている。この本の「はじめに」のところで「著者」イザヤ・ベンダサン氏(今日では、こうした人物は実在せず、ニセユダヤ人でさえもなかったことが明らかにされた。東北学院大学教授浅見定雄氏著の『にせユダヤ人と日本人』によってこのイザヤ・ベンダサンの正体は山本書店店主、山本七平氏だということが明らかにされている)はこう述べている。
まとめて一冊の本にしたい、という申し出をうけたとき、私の申し出た条件は、本書簡への批判、反論はもちろん、罵倒といったものまで、すべてを収録すること、であった。連載という方法は、途中で批判が入るので、それを契機に新しく論旨を展開しうるのだからその批判も掲載すべきであるし、また批判を除去して、私の言い分だけを一冊とすることは公正を欠くと思ったからである。幸い本多勝一氏の快諾を得て、氏の二回の反論を掲載することができた。深く感謝する次第である。ただ久野収氏(『朝日新聞』一九七二年二月二十八日掲載)と『余録』氏(『毎日新聞』一九七二年一月五日掲載)の分は省いた。掲載する価値がないと思ったからだが、関心のある方々は、前記の掲載紙を参照のうえ、それぞれに判断されたい。ただ、批判・反論という形は、時には論述が重複することは避けられない。しかし、対論となった以上、後で自分の論旨のその部分に手を加えることは公正でないので、章の表題の一部を除いて、すべてを『諸君!』掲載のままとして、加筆・訂正は行なわなかった。この点、了承して頂ければ幸いである。
そして事実この単行本の末尾には<付>という形で原告本多が執筆した「イザヤ・ベンダサン氏への公開状」と「雑音でいじめられる側の眼」が収録掲載されている。
これらは本来はベンダサンの文に対する反論なのだから、当該のベンダサンの一文の次に掲載しなければならないのに、これを末尾にまとめて掲載したことや、活字が本文よりも小さくかつ二段組である点など不十分なところはあるがともかく、反論文を収録したという点では一応の評価ができるのである。
しかしこの本は一九七五(昭五〇)年に被告文春が「文春文庫」の一冊として文庫化されたが、その単行本に収録掲載されていた原告本多の前項二つの反論文は全て削除されてしまった。
このように被告文春は従来から原告の反論を許さない姿勢をとり続けていることが明らかである。
単行本に反論文を収録するか否かは主として著者の責任であるとはいえ、出版物が編集者と著者との共同作業によって完成されている実態において、文庫本化に際して右のような経過をもつ反論文が削除されることは被告文春がいかにジャーナリズム精神や言論の自由、民主主義と縁遠い会社であるかを事実で告白しているといえるであろう。
第二 被告殿岡の違法行為
一 被告殿岡は「架空の引用」・「恣意的引用」等の違法な誤引用の方法で、原告に最大級の非難・中傷を加えた。
1 本件評論の分析
(一) 本件評論の中で原告が実際は言っていないのに「言ったことにされた」事実
本件評論にもとづくと、原告本多は本件著作物で次のとおり「主張し(書い)た」ことにされている。
○ 本多勝一記者の『ベトナムはどうなっているのか?』という本には「それは坊さんのセックス・スキャンダルを清算するための無理心中と書かれている」ことになっている(<書証番号略>「本件評論」五九頁上段・傍線引用者)。ところでこの「と書かれている」は、原告がそのように主張したという意味である(第一五回口頭弁論被告殿岡調書四四丁)(以下調書を特定するときは口頭弁論の表示を省略)。
○ 「この事件について本多記者は『焼身自殺などというものとは全くの無縁の代物』、『堕落』と『退廃の結果』であるといっ」た(同六一頁中段)。
○ 本多記者は、「事件は去年の六月一二日―絶望的になった彼<ヒエン―引用者注>の自殺の巻添えをくったものとみられる。」(同六二頁上段まで)と書いて、事件が無理心中であるとの結論を示したことになっている。そしてティエン・ハオ師が語った内容は本件評論の六二頁上段の二重鍵括弧、『この事件は解放のあとで外国に逃げた―声明を発表したのでしょう』部分だけに限定されているように書いていることになっている。
○ 「本多記者は重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書い」た(同六二頁中段)。
○ 本多記者は「カントーの事件でも現場に行かず、行けずに、―政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしている」―「本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントは一切避けている。」(同六二頁下段)
○ 「十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いた」(同六三頁中段)。
結局本件評論だけを読んだ読者は、原告本多が本件著作物の中で、
○ 取材の自由がないので確かめる方法もなく、確かめようとしないで、又現場に行かず、行けずに、
○ 政府御用の仏教団体の公式発表を全て伝聞(にもとづいて)、
○ 焼身自殺とは―全く無縁の代物で堕落と退廃の結果であると判断し、
○ 本件事件と坊さんと尼さんのセックス・スキャンダルを清算するための無理心中事件であると断定し
○ “セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに書いている。
と理解する。
(二) 本件評論の中で原告に加えられた非難・中傷
被告殿岡は、原告が「無理心中事件と断定したこと」を前提にして次のとおり非難・中傷した。
○ 本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントは一切避けている。なんともなげやりな書き方ではないか(同六二頁下段)。
○ あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか―「足で書く」記者であったはずである(同六三頁上段)。
○ 取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である(同頁上段)。
○ 本多記者を「ハノイのスピーカー」と呼ぶ人がいるのも非難ばかりできない(同頁中段)。
○ 誤りは人の常といっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言い訳ができない。原告本多記者は筆を折るべきである(同頁中段)。
(三) 居丈高に非難・中傷を加えた根拠としての「現場録音」テープ
被告殿岡が原告に対して「誤るにも誤りかたがあるという」ような居丈高な非難・中傷を加えることができた根拠として、「現場録音」テープの存在がある。テープの内容を詳細に紹介することで読者に対し、「真実の探究」としては殉教であることを「根拠」のある主張の如くに示し、それによって原告が本件著作物で「断定」している無理心中事件は、信用できないものであることを印象づけた。「足で書」かなくなった原告の「ルポ」は大きな誤りを犯したのであって、原告は筆を折るべきこととなる。
なお、この「現場録音」テープ(殿岡テープ)の信用性・違法性については項を改めて詳述するのでここでは右指摘にとどめる。
2 本件著作物の分析
本件著作物における本件事件に関する記事は、明らかに「発表もの」である。
(一) 本件著作物は二重の意味で「発表もの」のスタイルを厳格に守っている。
原告は本件事件を記述するにあたって、第一に「―ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」(<書証番号略>)と書き、紹介するのはハオ師の現場調査であることを明示した。そして改行して、「事件は去年の六月一二日の深夜のことだった。―」から書き始め、最後に「―“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう。」とハオ師の言葉でしめくくった。その上で第二に更に改行して念のために「ティエン・ハオ師は以上のように語った」とわざわざ明示した。このような二重に「発表もの」であることを表示することによってハオ師の調査を紹介しているにすぎないことが一目瞭然となるようにしている。
(二) 取材の自由がないこと、直接的ルポでないことを明記
原告本多は、本件著作物の二六八頁で次のように明記している。
「―『一二人の焼身自殺』―は新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。しかし、西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由にきく必要がある。そうでなければ「当局によれば」として「発表モノ」をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(同一七七頁)。
このように、原告自身のルポではないこと、単に「サイゴン当局の調査によれば」とする紹介にとどまることを同じ本の中で明記した。「発表モノ」を伝えただけであって、原告がその内容に関与していないことを、はっきりことわっている。(被告殿岡は同じ本のこの部分に気付かなかったのだろうか。そうではない。被告殿岡はこのすぐ前のページ(二六七頁)から、別の部分、つまり被告殿岡に好都合な部分だけを抜き出して引用(<書証番号略>)している。すぐ続いて右の部分があるのだから、この部分に気付かなかったとは到底考えられない。)
(三) 原告は資料的な意味でこの事件を紹介したにすぎない。
第一に、原告は本件事件を新聞記事としては書いていない。このことは本件事件を八百万人を越える新聞読者に対し速報的に知らせなければならないような重要な事件ではない、と考えたからである。単行本を出版する際、ひとつの資料として書きとどめたのである。なお、このときの新聞記事としては政府と仏教徒との関係について一般的に書いたもの(<書証番号略>・一九七七年四月一一日『朝日新聞』記事)があるだけである。
第二に、しかも本件事件については既にパリからのロイター電として政府の新宗教政策に対する抗議自殺であるというニュースが世界中を駆けめぐり、世界の人々の知る事実となっていた(<書証番号略>一九七六年九月九日『朝日新聞』記事)。そこで愛国仏教会会長がそれに反する調査結果を発表したことが、情報として一定の価値があり、記録しておくことそれ自体に意味があるとの判断によって紹介したものである。(第一八回証人筑紫調書一二から一三丁)
第三は、本件事件を書きとどめておいた理由の一つとして、前章でこの事件について触れているので章を改めて記載しておく方がわかりやすいであろうという読者への配慮もあった。つまり、ベトナム戦争時において仏教徒(アンクアン派)による焼身自殺の抗議は世界に衝撃を与えベトナムの解放に寄与した。解放後そのアンクアン派は沈黙しつづけており、彼らがどう考えているのかについて公開の場で明らかにされたことはなかった。そうした折、原告がベトナム滞在中に、ホーチミン市人民委員会が公然とアンクアン派と対決する構えを見せ、同委員会作成の警告書の中に本件自殺事件について触れている。そのことを「仏教徒の周辺」(<書証番号略>「本件著作物」一六六・一七〇頁)で紹介した。そこで章を改めてこの事件について紹介したにすぎない。
3 本件著作物を本件評論のように変貌させた方法
誤った前提・推論・引用等をもとに立論してはならないのはなんびとにとっても最低のルールである。被告殿岡も、
あなた自身は、他人の著作物を引用するについて、どういうような点を注意しておられますか。
なるべくその人が言ったことを客観的に、忠実に批判する場合でもまず客観的でなければいけないとそう思っておりますし、また心掛けてるつもりです。
正確性を出す必要があるというふうに理解してよろしいですね。
はい。(第一六回被告殿岡調書四三丁)
と答えており、この点については何ら争いがない。
ところが被告殿岡は、原告の本件著作物を評論(実態は非難・中傷であるが)の対象とするにあたり、次のように誤った引用等の方法を用いて原告が使ってもいない言葉を使ったとし、言ってもいない事実を言った事として、原告の本件著作物の内容とは全く異なる虚構をつくり上げ、「発表もの」の内容を原告の調査結果であるかのようにすり変えたのである。
(一) 存在しない言葉の「架空の引用」
「この事件について本多記者は、『堕落と退廃の結果』であるといっている。」と殿岡は引用している。しかし、本件著作物にはそもそもこのような文言は存在しないのであって、これは明らかに架空の引用である。すなわち、本件評論は、原告本多自身が本件事件を「堕落と退廃の結果」であると言っているという架空の事実を前提とした出発しているのである。
(二) 恣意的引用
(1) 記述主体者のすりかえ
原告は本件事件を記述するに当たって、二重の意味で発表ものであることを明示している。にもかかわらず被告殿岡はこの部分を引用するに際し、導入部分の「ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」を意図的に欠落させて引用した。このことによって被告殿岡は、原告がハオ師の語った内容として記載した部分をあたかも原告自身の調査であり原告自身の調査内容である、と読者が頭から誤解してしまうようにつくり変えてしまったのである。なるほど原告本多が念のために加えておいた末尾部分の「ティエン・ハオ師は以上のように語った。」という言葉はそのまま引用されている。しかしこの引用部分の直前に『』で括られたハオ師の直接話法による言葉が紹介されているため、ハオ師の言葉は、この『』で括られた部分のみを指すとしか理解できないようになっている。
すなわち、被告殿岡は原告の著作物を引用するに際し、その引用部分の論述の主体が誰であるかを読者に誤らせるように、本件著作物の導入部で明示している「―ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」という部分をわざわざ欠落させ、これにより引用部分の論述主体があたかも原告であるかのようにすりかえているのである。
また更に被告殿岡は原告が「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物と言っている」と引用するのであるが、右言葉を語ったのはハオ師である。つまり本件著作物では「ティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて『外国に逃げた―事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です』」と記載しているのであるから、ハオ師の言葉以外に取りようがない。にもかかわらず被告殿岡は、あえて記述主体をすりかえて原告本多が述べた内容であると「引用」したのである。
(2) 重要部分の恣意的引用
原告がハオ師の語った内容を紹介したのは、第一にこのハオ師が事件の現場調査をしていたというからであり、第二にこのハオ師が「愛国仏教会副会長」という責任ある立場にあったからである。そしてそのハオ師の語った内容はそれまで世界を駆けめぐっていた「パリ発ロイター電」の報道と全く異なっていたからである。“このような者が、このように語った”という事柄自体が読者に提供するに値するひとつの情報たり得たのである。そこで原告は右ハオ師の語った事柄を紹介するに先立ち、まずこの「愛国仏教会は愛国知識人会と同様に、革命政権に協力するための仏教会での組織」・「仏教の一七派が加わっている」という事実を明らかにし、更にその「愛国仏教会」の副会長が、自分自身で事件の現場調査をした結果であると述べたものであることを明示した。またこれらの点を明らかにしておくことは情報の客観性と情報を価値判断する際において極めて重要な事柄だからである。ハオ師によって語られた事実がどの程度客観性があり信頼できるものかどうかは、ハオ師の立場を紹介されることなくしては読者も判断できないからである。
ところが被告殿岡は、本件著作物を引用するにあたり右の重要な諸点を意図的に全部欠落させて引用した。このため、原告の本件著作物は、(原告が無理心中と断定して書いているという前提に立ち)あたかもどこのだれかもわからないハオ師の言葉によって補足的裏付けをしているにすぎないかのように読者に印象づけられているのである。
二 被告殿岡は事実を捏造したり、事実をきわめて不正確に紹介する人物である。
1 殿岡テープ(以下被告らが任意に法廷に提出したテープ―<書証番号略>―を指し、かつ、被告殿岡が本件評論を書く際に入手していたテープが右テープであったと仮定して主張する)の紹介にあたり勝手に内容を捏造して紹介している。
(一) 本件評論によれば殿岡テープの内容について次のとおり紹介されている。
名前を読みあげた声は一呼吸おいて、さらに歌うように最後の一節を読みきる。
「恥の中に生き長らえるよりも真実と名誉のために死ぬ方が喜ばしい。理想を守るため、良心を守るため、そして真理を守るために私達は死に就きます。薬師禅院の代表、ティック・フエ・ヒエン、南無妙本師釈迦牟尼仏。」
テープは再び勤行が始められたことを示している。一人の僧、多分は禅院の指導者であるフエ・ヒエン師の独唱を中心に木魚のどっしりした響き、幾種類ものあるいは高く、あるいは低く音を響かせる鐘が結び合い背き合い、そこに僧尼の無心で晴やかな合唱が加わる。とても焼身自殺を直後に控えた人達の最後の勤行とは思われないほどの音律の豊かさ、永遠につづいていきそうな気持ちになる(<書証番号略>『諸君!』一九九〇年一月号・二六五頁にも類似の記載がある。)
しかしながら殿岡テープによれば、右最後の一節を読み切った後に続いているのは歌四曲である。被告殿岡が紹介している「勤行が始められたこと」も、「木魚のどっしりした響き」も、「幾種類ものあるいは高く、あるいは低く音を響かせる鐘が結び合い背き合い」する音も、全くない。更に右四曲はすべて男性の独唱であり、「僧尼の無心で晴やかな合唱が加わる」ということもない。即ち、被告殿岡は、そのテープに収録されていないにもかかわらず「再び勤行が始められた」以下を捏造し、読む者をしていかにも臨場感があり「現場」で録音したものであるかのような錯覚に陥らせるように故意に事実を捏造したのである。
(二) 本件裁判中に発行された一九九〇年一月号『諸君!』の被告殿岡が書いた「ベトナム集団焼身自殺事件『証言テープ』はこうして作られた」という評論(以下一月号評論という)(<書証番号略>)において、被告殿岡は殿岡テープの内容を説明するについて次のように記載した。
「裁判(本件裁判を指している・引用者注)で問題とされる姓名を読み上げる箇所を」―「チェック」し―「声明がまた『南無妙大師釈迦牟尼仏」で終りいよいよ殉教の準備が全て整った禅堂のくつろいだ様子は私を驚かせる。ヒエン師は仏教を讃える短い歌を二曲歌う。お坊さんになることはいろいろ苦しいことを伴うけれど、人々の幸福に尽くせるという喜びもある、といった内容だそうである」―中略―「女性信者の一人がベトナム人の誰もが知っている『無名戦士を讃える歌』を歌う。いま目前で死のうとしている十二人の僧尼を国民を守って戦場に斃れた兵士になぞらえているわけである。」
ところで、「南無妙大師釈迦牟尼仏」のあとに続く歌を誰が歌っているかについては、被告殿岡が言うようにヒエン師であると安易に特定できないと考えるが、この点はさておくとしても、殿岡テープに四曲の歌が続いて録音されていることは明白な事実である。一月号評論のようにヒエン師が二曲、女性信者が「無名戦士を讃える歌」を歌っていると説明されるならば、読者は殿岡テープには歌が三曲しか録音されていないように理解する。被告殿岡は、殿岡テープの紹介にあたりふたたび不正確不十分な紹介をしている。更にもっとも問題なのは、女性信者が「無名戦士を讃える歌」を歌たっているというが、殿岡テープの歌は四曲とも明らかに男性の声であり女性ではない。その歌の内容も①薬師禅院の仏教歌、②歌・僧の小屋、③(詩らしきものの朗読の後)歌・昔の寺を偲ぶ、④歌・救世釈迦の合計四曲が録音されているのであり、「無名戦士を讃える歌」はどこにも録音されていない。
したがって、被告殿岡はふたたび「女性信者」が「無名戦士を讃える歌」を歌っているという捏造を繰り返したとしか言いようがないのである。
(ところで、被告らが殿岡テープを法廷に提出するにあたり作成した「殿岡テープ・本多テープの内容対照表」には、殿岡テープ内容の説明として「テープカウンター一〇一五、歌(女性)との記載がある。しかし法廷に提出した殿岡テープに「歌(女性)」がないことは明らかである。そして被告殿岡は一月号評論で「女性信者」が「無名戦士を讃える歌」を歌っていると書いている。つまり、被告殿岡テープの内容について二度にわたって同じ「誤り」を繰り返した訳であるが、この事実は、むしろ、被告殿岡の手元には本法廷に提出された殿岡テープとは異なる別のテープ即ち女性の歌が収録されているテープが存在し、右対照表や一月号評論はこの別のテープに基づいて書かれたものではないかとの推測すら成り立たせていることを付言する。)
(三) 更に、被告殿岡は一月号評論において
「私のテープ(殿岡テープを指している・引用者注)と聞き比べるとはるかに(本多テープは・引用者注)録音状態が悪く―」
と記載しているが、殿岡テープと本多テープを聞き比べれば殿岡テープの方がはるかに録音状態が悪いのである(<書証番号略>「鑑定書」八頁)。
ここでも被告殿岡は十分な検査・検証もせず思い込みのままに書いて平然としているという習性を露わにしている。
(四) いずれにしても殿岡テープが本法廷に提出されなかったならば、この捏造の事実が、このように「陽の目を見る」こともなかったであろう。いったい原告と被告のどちらが「たしかめようがないから何でも書くことができると考えている」(<書証番号略>「本件評論」六三頁上段)人物なのかを問わずにはおられない。「言い訳はできまい」(<書証番号略>)と被告殿岡が原告本多に対して投げつけた言葉は、そのまま被告殿岡自身にあてはまる言葉である。
2 殿岡テープの紹介にあたり重要な事実を恣意的に欠落させ、事実を不正確なものとした。
(一) 本件評論では殿岡テープの内容は次のように紹介されている。
第一に「寺のリーダーは穏やかな声」で「弟子」に対して「説教」している。「南無妙本師釈迦牟尼仏。―」で始まり「―仏陀にお祈りいたします。」で終わっている。(<書証番号略>「本件評論」、五九頁下段から六〇頁上段)。
第二に次に声の調子が改まって、政府に対する抗議の呼びかけとして「南ベトナム共和国臨時革命政府および―」で始まり「これから焼身自殺をいたします。」と「呼びかけ」て終わっている。そして声は乱れもせず、十二人の僧と尼の名前を読みあげたあと、名前を読みあげた声は一呼吸おいて、さらに歌うように最後の一節を読み切っていることになる。即ち、「恥の中に生き長らえるよりも」で始まり、「薬師禅院の代表、ティック・フエ・ヒエン、南無妙本師釈迦牟尼仏。」で終っている。
そして第三に再び勤行が始まった(前1項記載の部部)と紹介されている。
したがって第一の部分ではリーダーの穏やかな声の説教がある。第二の部分では政府に対する抗議の呼びかけが始まり、その後十二人の名前を読み上げ、更に最後の一節があり、その末尾にヒエンの署名がある。(十二人の名前以下が用意された文章を読みあげたものであると紹介されている。)そして第三の部分では再び勤行が再開されたとなっている。なお、右第一から第三は、あたかも時間的に連続しているかのように紹介されている。
(二) しかしながら殿岡テープによれば、
右第一、第二、第三は、それぞれの箇所でテープが切断されており、三つの別々の部分から構成されており、時間的に連続しているか否かが明らかでないことは明白である。
更に第一も第二も「アピール文」または「声明文」を、しかも末尾に住職の印が押印されている文書を「読み上げ」たテープであることは直ちに判明する。
(三) ところが被告殿岡は第一部分の末尾にある「住職が印記し、読み上げる」「ティック・フエ・ヒエン」の部分(<書証番号略>「殿岡テープの翻訳文」)を故意に紹介しなかった。そして逆に本件評論のテープ内容を紹介する冒頭に、被告殿岡のコメントとして「最後の勤行であることは疑いない」と書き加え、更に第一部分の冒頭に「―次のように穏やかな声で説教」し、「弟子に対する語りかけ」をなしたと書き加えて紹介したのである。
このように紹介されれば、読者は焼身自殺直前に最後の勤行(説教)がなされたと読んでしまうのは当然である。
また、第二部分の冒頭でも「政府に対する抗議の呼びかけ」がなされたとまず紹介するので、文書を読み上げているのは十二人の名前以降の部分であるかと思われる。つまり被告殿岡は本来は第一、第二は文書を読みあげているにすぎないテープであるにもかかわらず、それを正確に紹介せず、あたかもごく限定された一部については文書を読み上げているが、その余は現場での説教であるかのように紹介して、読者に疑いなく現場録音テープであると思い込ませようとしたのである。
ここでもまた重要な部分を恣意的に欠落させて内容を誤解させるという一例が再現されているのである。
3 記述主体のすりかえ
事実を記述する場合、記述が見たり聞いたりしたのか、思い出したりしたのか、あるいは第三者が見たり聞いたり思い出したりしたのか、その第三者もAなのかBなのか特定できない第三者なのか。つまり、「だれが」ということは事実判断にとって欠くことができない重要な事柄である。このことはジャーナリストの世界のイロハともいうべき「五W・一H(いつ・どこで・だれが・何を・なぜ・どのように)」の原則や一九八四(昭和五九)年九月四日付原告作成の「私はこの裁判をなぜ重視するか」で記している『サンデー毎日』や『わだつみの声』の訂正(お詫び)(<書証番号略>)の実例を引くまでもないことであろう。
被告殿岡は前項で記した通り、ハオ師の言葉を原告本多の言葉にすり替え、原告本多が言ってもいないことをあたかもそのように言ったかのように紹介するという、最も基本的な誤りを犯した。
ところで、原告側が被告殿岡の著作物のごく一部を検討した結果でも、本件ほどひどいものではないが、被告殿岡は同種のことをくり返している筆者と言わざるを得ないのである。以下具体例をあげてみよう。
被告殿岡の著作物である『アメリカに見捨てられた国―ベトナム戦争、そしてボート・ピープルに学ぶもの』一九八〇年四月発行創世記出版(<書証番号略>)、「ベトナム難民との二年間―亡き国の人々とともに―」(<書証番号略>『革新』一九七九年一月号)、「ベトナム難民」(<書証番号略>『自由人権のすべて』―『月曜評論』一九七七年一二月一二日号より転掲―)「難民に会ってみて」(<書証番号略>『革新』一九七八年八月号)を各々読み比べることによって次の事実を確定することができる。
殿岡は一九七七年一〇月(一五日)ワシントン・ヒルトンホテルでタン・フォン氏に会った。これが難民との出会いのはじめであった。ワシントン郊外のノース・アーリントンにあるフアン氏の家へ行って彼から話を聞いた。第二の難民としてグエン・コン・ホ(フォ)アン氏にその翌日会うことになった。ホアン氏はベトナム統一前および統一後を通じて国会議員の職にあったという異例の人物で、統一後のベトナムから難民として脱出した。殿岡はフォン氏とともに、アーリントン小学校の集会に参加しているホアン氏を迎えに行き、同夜はフォン氏の家でホアン氏と語り合った。ホアン氏は夜半(午前一時頃)に帰ったが、殿岡はフォン氏宅に泊まった。翌朝、フォン氏の車でホテルに送られその途中―ワシントンD・Cへ向かうフリーウエイに入る直前に殿岡は小学校の朝礼を見た。
被告殿岡は、この小学校の朝礼でアメリカの国旗掲揚をするベトナム難民の子どもの姿を右の本の中で描写しており、その情景に重ねて、ベトナム難民が子ども達の将来即ち祖国を持たない人民の悲哀について述べた言葉を直接話法の形で紹介して書いている。直接話法の形で紹介しているのであるから、話をした者が特定できる場合に使う方法であることに異論はあるまい。さらにまた同一情景の中で述べているのであるから、ある特定の一人の人が述べた事柄と推認することができる。このような前提のもとで被告殿岡がその直接話法で語った主体について書いた部分が各々どうなっているか読みくらべてみよう。
○ 「しかし私はその時、フォンさんの奥さんの言葉を思い出した。彼女はこう言ったのである。」(注・「その時」は小学校の朝礼で国旗の掲揚をみている時である。)(<書証番号略>)
○ 「しかし私はその時、フィラデルフィアで会った洗濯屋をいとなむベトナム難民の話をふと思い出した。彼はこういったのである(注・「その時」は右と同様の意味)(<書証番号略>)
○ 「私はベトナムの難民の言葉をその時、思い出した。」(注・「その時」は右同様の意味)(<書証番号略>)
○ それを見ながら難民の人々はこう言うわけです。(中略)その方の奥さんは洗濯屋さんを始めまして、少し商売が軌道にのってきたところ旦那さんは町の掃除夫としてパートタイムの仕事をやっているという状態であった―。」(<書証番号略>)(注・「それを見ながら」とは小学校の朝礼で国旗の掲揚を見ながらの意味である。)と記載されているのである。<書証番号略>ではアメリカの国旗掲揚をするベトナム難民の子どもの姿を見ながら、被告殿岡自身が難民から聞いた話を思い出して紹介するという書き方をするのであるが、一方<書証番号略>ではベトナム難民の人が被告殿岡に対し直接語ったようにも紹介するのである。更にベトナム難民から聞いた話を思い出して紹介するについても、それを語った人物は、ワシントン郊外に住むフォンさんの奥さん(<書証番号略>)であったりフィラデルフィアで会った洗濯屋の「彼」(<書証番号略>)であったりする。いったい誰が、どこで、語った話なのであろうか。読み比べると全く謎である。
フォンさんの奥さんもフィラデルフィアで会った洗濯屋の彼も、奥さんが洗濯屋で町の掃除夫のパートタイマーをやっている旦那さんも、いずれも被告殿岡の論旨に賛同する人達であり、これらの人から直接“自分は言っていない”というクレームが来ることがないことであろう。しかし、作家曽野綾子が一九八五年九月一七日付『朝日新聞』の「声」欄(<書証番号略>)で、自分が言ってもいないことを言ったとして批判されていると朝日新聞社に批判を加えているように、誰が何を言ったかということを「誤って」紹介するということは、言ってもいない思想をその人のものとして提示してしまうという点において見すごすごとができない重大な問題なのである。したがって、被告殿岡のような記述主体のすりかえは、クレームの有無にかかわらず許されることではない。被告殿岡のようなすりかえをして事実を提示していくことが許されるのであれば、一つの事実はいかようにも脚色されていくことなり、事実を知らせるという仕事の初歩において誤りを犯していると言わざるを得ない。
三 被告殿岡のあれこれの「弁明」はすでに破綻している。
1 「発表もの」を書くことはそれを支持していることである、との「弁明」
被告殿岡は「比較してみますと必ずしも正確ではありません」と、自らの引用が正確でないことを自認している(第一五回被告殿岡調書二五丁)。
しかし続いて被告殿岡は原告本多が最初にルール違反をした。即ち資料として記載するならば地の文章でなく注として書くべきであったと主張する。「発表もの」をそのまま取り上げて書くことは、発表そのものに意味がある、即ち引用者がそれを支持しているときに使うやり方であると主張する(第一七回被告殿岡調書、三五丁・答弁書第三の二)。
しかしながら、「発表もの」をそのまま書くことが発表された事柄を「肯定している」ことになるという論理は成り立たない。この書面において被告殿岡の主張を引用したことが被告殿岡の主張を「肯定している」のでないことと同じであろう。「発表もの」は、発表それ自体を正確に報道するものであって、とりあえずそれを肯定したり否定したりするという価値判断を含まない記事のことを言うのである。これは政府等のある発表を「発表もの」として報じた記者や新聞社が「政府の発表を支持している」とか「政府のスピーカー」と考えないのは天下の常識である。
更に被告殿岡は(<書証番号略>「国家の崩壊」八〇年四月号『諸君!』二〇四頁)において、旧ベトナム軍情報将校のホアン・トゥルツクタム氏がのべたテト攻撃がアメリカの陰謀であったという説をそのまま地の文で紹介している。これについて被告殿岡は「一つの見解」を紹介したものであり、自分の立場とダムさんの考え方は違うと述べている(第一七回被告殿岡調書一〇丁)。
したがって「発表もの」を書くことが、「発表もの」の内容を支持しているときに使うやり方であるという主張は、すでに被告殿岡自身において否定されており、論旨はすでに崩壊している。
これに関して被告らは、本件著作物二六八頁において、原告がわざわざ
「私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七ページ参照)。」と明示していることをとりあげて、
「もし本多さんが本文の中できちんと発表ものの形で発表ものとして書いてあればここでこんなふうに弁明する必要がなかったんだと思います。百何十ページも離れて弁明せざるをえなかったのは、その書き方が実はまずかったことを本多さんは知っていらっしゃった証拠だと私は読むんです。」(同調書、三一丁)
と述べている。しかしながら、既に述べたように原告が二重の意味で発表もののスタイルを取って本件事件を紹介していることは、その形式だけからも判断可能な明白な事実である。「その書き方が実はまずかった」等というのは全くのこじつけである。また本件著作物二六八頁の右記載は「百何十ページも離れて」本件事件をわざわざ“弁明”したものでもないことも当該部分を読めば明白である。ベトナムにおける自由な取材を必要としながらそれが可能でなかったことに触れ、そうした場合は「発表もの」をそのまま報道することの意味について述べ、その際の実例として本件事件の記述を提示したものである。被告殿岡の読み方は偏見あるいは自己弁護の必要から生み出された苦しまぎれの詭弁でしかない。
2 原告の立場を要約・言い替えて引いたにすぎない、との「弁明」
被告らは、「焼身自殺などと―無縁の代物」・「堕落と退廃の結果」という言葉は原告の本件著作物での立場を理解した上で要約的あるいは言い替えて引いたものであるとも主張する。(第一七回被告殿岡調書一三丁・第二〇回被告堤調書三二丁から三五丁)。
しかし被告殿岡らの右「弁明」は成り立たない。
引用、要約は正確でなければならない(<書証番号略>)。そしてこれはジャーナリズムにおける初歩的な約束事である。このことは被告殿岡もその尋問において肯定しているところである。引用、要約あるいは言い替えが正確でなければならないことと、被告殿岡が本件著作物をどのように読んだか、どのように理解したのかということとは全く次元の違う問題であるから、両者を混同した「弁明」と言わなければならない。また、本件事件が「焼身自殺などと―無縁の代物」・「堕落と退廃の結果」という言葉に要約されているとの「弁明」は、原告本多が調査などしていないものを原告が調査をなし、その結果を記述したものとして被告殿岡によって“要約”されているのであるから、要約であれ言い替えであれその内容である前提になる事実が存在しないのである。したがって、“要約”という「弁明」は完全に誤っている。
3 導入部の「どういうことであろうか」は「解明してみせよう」ということである、との「弁明」
被告殿岡は、本件著作物が「前章にでてくるファム・ヴァム・コー(フエン師)の事件とはどういうことであろうか」(傍線引用者)との書出しで始まっている「どういうことであろうか」は原告本多の自問であり、この自問は「これから解明してみせよう」というふうに読める。「本多さんが自分で調べなくても非常に信用して書いたというふうに私も読む」し、「皆さん読むんじゃないか」(第一七回被告殿岡尋問調書四四丁)と「弁明」している。しかし本件著作物の右部分は前章をうけた導入部以上の意味を持っていないことは前章と合わせて読めば明白である(本章の第一の一の2の(三)参照)。この導入部を受けてハオ師の調査を紹介していることも既に述べたとおりである。被告殿岡が主張するように、原告が「非常に信用して書いた」と読める具体的な根拠はどこにもないのであって、なんの根拠もなく被告殿岡が「私も読む」のは勝手というほかはないにしても「皆さん」が「読む」というのは全く勝手な思い込みという他はない。
4 全体としての引用は何ら誤っていない、との「弁明」
取材の自由がない―確認の方法がない―ことをいいことにして、原告は本件事件を「発表もの」であるかのような形をとって、それを真実のように読者に伝えたいと本件著作物を書いた。原告はそのようにして本件事件を事実であるかのように読者に伝えたかったのだと被告殿岡は理解し、その上で本件評論のように引用した。したがって本件評論の引用は全体として何ら誤っていない、というのである。(第一六回被告殿岡調書三八丁)
しかしながら右「弁明」の中でまず問題にされなければならないのは、原告が「それを真実のように読者に伝えたいと考えて」書いたという被告殿岡の主張自体に根拠があるかどうかである。「発表もの」を紹介したことが、その内容を支持し真実のように伝えたいと受けとる根拠とならないことは既に右1で述べたとおりである。そこで次に被告殿岡の法廷での供述を検討してみよう。原告代理人から「この本の中自体には、本多記者は自分の意見として書いてある箇所は指摘できないんでしょう、あなたには。ここがそうだということを。」と、具体的根拠を示すよう求められた質問に対して、被告殿岡は、
「一節全部そうだと言っているのです、私は。」
「まるごとそうだというんです。」
(第一七回被告殿岡調書一五乃至一六丁)
という苦しまぎれの「弁明」に終始し、結局のところ原告が「真実であるかのように読者に伝えたいと考えた」箇所を具体的に指摘することができなかったのである。更に言うならば、右のように被告殿岡が具体的箇所を指摘できないことは当然といえば当然であったのである。被告殿岡は、原告の「判断」を勝手につくりあげたにすぎないのである。原告の本件事件に関する記述を素直に読むならば本件事件の紹介が正確な「発表もの」であることは誰にでも理解できる事実だからである。
つまり、原告は制限された取材活動の下にあったため、原告自身がその真偽について取材をしてその判断をなすことが不可能であった。だからこそ、真偽についての判断を留保した「発表もの」として記録したのである。
記者が事実の真偽につき自己の判断をもって報道できるか否かは、その事実についての調査の範囲、得られた資料、資料の価値などを通じて最終的に決定する。そうであるから事実の真偽において自己の判断をもってする報道は、当該記者の調査力や判断力が問われるのである。しかし現実に記者は、さまざまな制約(政治的、社会的、地理的、経済的、時間的)の中で取材をせざるを得ない。自己の取材の結果だけではその時点で自己の判断が不可能な場合がある。その場合は事実に関する判断を留保したり、何ら自己の判断を加えずにその発表内容をそのまま紹介するにとどめるという「発表もの」の手法をもって紹介するのである。これは新聞記者や著述家の初歩的な手法に属する事柄である。先にも述べたとおり本件著作物は二重の意味で「発表もの」であることを明示している。そして当然のことながら原告本多が「発表もの」の形をとりながら真実のように伝えたいと考えて書いたということを推量させるような部分さえ全くないのである。
5 本件著作物の付録部分に原告本多の立場が凝縮されている、との「弁明」
被告殿岡は、本件著作物の付録部分、特に「古き友」はなぜ背を向ける?―新生ベトナムと取材の自由―からいくつかの箇所を取り上げて、原告はベトナム擁護の立場に立っている。その立場から本件事件を取り上げたのであり、「発表もの」の形式を借りながらベトナムの立場を擁護しているのであると主張してその引用等の誤りを正当化しようとしている。
(一) ところで、「古き友」はなぜ背を向ける?の部分は「A」から「F」までの六つの章から成り立っている。原告は「A」で、かつての反戦知識人が今になってなぜベトナムに背を向けはじめたのだろう。これらの人の個人的な性格や「限界」の問題などの次元ではなく、ベトナム側の体制とか機構とか、もっと根源的なところに原因があるのではないかという問題意識を提示した。そして「B」以下「F」まで一貫して、ベトナム当局あるいはベトナム人によって人権抑圧の事実がないといろいろ説明されたが、「―私自身納得できるまで取材しなければならない。そのためには、あらゆる現場を自由に取材しなければならない。裏も表もすべて調べ、何より現場の声を自由に聞くことが必要だ―」。「今こそ『自由な取材』をさせるべきではないか―。」(「D」二六五・二六六頁)と取材の自由が制約されている現状を述べると同時に、原告自身が人権抑圧があるかないかの直接的判断(ルポ)が下せない(ルポが書けない)ことも述べている。また取材の自由のないところでは、ジャーナリストとしての判断が下せず、発表ものを紹介するにとどまるということの例として本件事件にも触れているのである。したがってこの部分を一言で「凝縮」するならば、直接的判断が下せない(ルポが書けない)こととその理由を述べた部分というのが正確である。
本件著作物が取材の自由がないことを強調した本であることは、次の書評によっても明らかとなっている。
○ アジア問題・解説者の井沢信久によれば、「本書の末尾に六編の付録が付いている。“「古き友」はなぜ背を向ける?―新生ベトナムと取材の自由”などのタイトルが示すように、友人としての著者のベトナム批判である。疑念の表明である。」としたうえ、「彼の指摘の要旨は、勝利したベトナムが猛烈な北爆を受けていた頃よりも取材の自由を認めないのはなぜなのか、取材の自由が認められなければよいルポは書けない。納得できる取材ができない以上ほめてもけなしてもウソになるというものである。著者が本書に『ベトナムはどうなっているのか?』という表題をつけたのは、実は自分でも断定できるものがつかめなかったことを良心的に告白したものなのである。」とのべている(<書証番号略>『アジア』一九七八年四月号一一三頁中段・下段)。
○ 『朝日新聞』の書評(<書証番号略>・一九七八年一月三〇日)では、本件著作物が「ベトナムの社会主義建設を考える有力な材料を提供している」とし、更に「著者があえて(ベトナムの・引用者加入)批判を口にしなければならなかったところに、平和な社会主義建設のむずかしさがあると言えるのではないか」と述べている。
○ 被告文春発行の一九七八(昭和五三)年三月二日号『週刊文春』の「文春図書館」(<書証番号略>)では、本件著作物を「珍書」として揶揄したうえ、本件著作物で原告が「さぞかし社会主義建設中の勇姿を友情あふれる目で紹介しているにちがいない、と思って読むと大いに当てが外れる」、「社会主義がいかにすばらしいかということを日本の人民に伝えようとしても取材の自由がなかったら説得力ある記事が書けるはずがない、と著者は怒っている」と書いている。
『週刊文春』の記事は真面目な批評というには程遠いものであるが、この類の書物でも、原告が先駆的に「新生ベトナムの正しさ」を主張していると理解していないし、まして原告がベトナム当局と同じ見解を示しているとはいささかも言っていない。逆に「友情あふれる目で紹介しているに違いない、と思って読むと大いに当てが外れる」と断定し、「説得力ある記事が書けるはずがない」と原告は「怒っている」と理解していることは注目に値する。
○ なお書評ではないが、歴史学者笠原十九司も、本件著作物は原告の「予測や分析を入れずに、聞いたことを記録して紹介する、という態度に徹している」ものと理解していると述べている(<書証番号略>『歴史学研究』一九八七年六月号五五頁)。
(二) これに対し被告殿岡及び被告らは「E」の部分に原告の立場が凝縮していると主張し、具体的には、
第一に、原告は「西側で宣伝された事件」として本件事件を紹介しているから一定の立場が驍名されていると言う。しかし宣伝という言葉は一般にある主張・商品の効能などを多くの人に説明して理解・共鳴させ、広めるという趣旨にすぎない。「西側で言われていることは事実じゃないんだ」(第一六回被告殿岡調書一二丁表)などというような本件事件の真偽についての否定的な使い方に「解釈」するのは被告殿岡の一方的な「解釈」にすぎない。まして、そのすぐ後で「私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない」と明言しているのであるから「宣伝」という言葉によって本多が本件事件の真偽について判断を下しているなどということは到底言い得ないのである。
第二に、「私は困った。これでは説得力のあるルポルタージュによって「新生ベトナムのすばらしさ」を描くことができない。『現場で実情をよく見る』(ヴー・コク・ウイ氏)ことが、これではできない。表面的な『取材』による限りでは、たぶんすばらしい方向に進みつつあるようだ。そう信じたい。」と書いていることを立場の表明であるという。しかし原告は、ベトナム当局がどのように「新生ベトナムのすばらしさ」を言っても取材の自由がなければルポルタージュが書けないという趣旨で「これでは」「説得力あるルポルタージュによって『新生ベトナムのすばらしさ』を描くことができない」(二六八頁)と書いており、続いて「表面的な『取材』による限りでは、たぶんすばらしい方向に進みつつあるようだ。そう信じたい。」(同頁)と「たぶん」にわざわざ傍点を付して皮肉を強調しているのである。当該部分を読めば自由な取材の必要性と、それがないところではルポが書けないことを述べている趣旨であることは明白である。
第三に、「たぶん『一〇倍も美しい祖国に築き上げ』(ホー・チ・ミン)られつつあると思う。そう信じたい。ただ、心ゆくまでの取材による確信をもってそれを報告できないだけである」と書いていることを立場の表明であるという。しかし、「『一〇倍も美しい祖国に築き上げ』られつつある」との部分は、ベトナムの最高指導者の言葉を引用したものだが、ここでもわざわざその前に「たぶん」を加えて「たぶん『一〇倍も美しい祖国に築き上げ』(ホー・チ・ミン)られつつあると思う。そう信じたい」と記述し、続いて「それを報告できない」と書き、結局取材の自由がないところでは原告は何らの判断を示すことができないということを強調して述べているのである。
被告殿岡らは原告が「E」の部分で反語的・逆説的用法を使って書いていることを事さら無視して勝手な「弁明」をつくりあげているにすぎない。これらのあげ足とりともいうべき「凝縮」論は、木をみて森をみない視野狭窄的論法というべきである。
四 被告殿岡は原告のジャーナリストとしての本質に最大級の非難・中傷を加えたのであり、違法性がきわめて高い。
1 原告は事実を基本にするジャーナリストである。
原告が徹底して事実を基本に置いたルポルタージュを書いてきたジャーナリストであることは、原告本人尋問や『事実とは何か』(<書証番号略>)をはじめとする書証(<書証番号略>『再訪・戦場の村』二六一頁、<書証番号略>『歴史学研究』五五・六三頁、<書証番号略>『カンボジアはどうなっているのか?―亡命難民たちの証言』九八・三〇四乃至三〇六頁、<書証番号略>『カンボジアの旅』)等によっても既に明らかにしてきたが、更に次のいくつかの書評及び人物辞典の評価によって、否定できない客観的事実となっている。
○ 原告は一九六九年のボーン賞を受けている。(ボーン賞は日米ニュース交流に一生をささげた元UPI副社長マイルス・W・ボーン氏の功績を記念するために設けられ、国際理解に貢献した日本人記者に贈られる。受賞者はこの当時までで原告を含め三〇人であった。)その受賞の理由は、「取材対象と徹底的に取組むことにより多くの隠れた事実を明るみに出して国際情勢の判断に役立つ新鮮な資料を豊富に提供した努力、とりわけ南北ベトナム踏査報告シリーズが高く評価されたためである。」(<書証番号略>69.3.25付『朝日新聞』)
○ 右ボーン賞受賞の理由のひとつとなった『戦場の村』につき、被告文春発行の一九六八(昭和四三)年五月六日号『週刊文春』の「書籍パトロール」(<書証番号略>)で、村上兵衛(評論家)は「この著者によるルポのすぐれている点は、その冷静な客観的な態度にあった。その著者の眼に映った現実は、直視されなければならない。」と評価している。
○ 人種差別の真の実態を体験的に明らかにした本である『アメリカ合州国』について、陸井三郎(評論家)は「本多氏はもちろん、かなり調べたうえでアメリカに行っているが、本書が語るのは、自分の目や耳でたしかめ、体験したことばかりである」(<書証番号略>『サンデー毎日』71.1.24号)と評価している。
○ 『ルポ短編集』について「“本多ルポ”には(カナダ・エスキモーのルポ等にしても)このような“草の根”的次元への密着態度が、しっかりと土台になっている。だからそれは、ときに本質的なナマの「事実」を露(あらわ)にする」と評価されている(<書証番号略>『聖教新聞』S56.7.1)。
○ 『カンボジアはどうなっているのか?』について、松本三郎(慶応義塾大学教授)は、「第一流の取材記者である著者が、その訪れた社会主義国では例外なく『取材の自由』がなかった体験から、何故なのかと問い、そこから、社会主義の本質に迫ろうとしているのは興味深い。『良いハズ』の社会主義国が何故取材を拒否するのか。取材できない以上、『良い』か『悪い』かはわからない。『保留』せざるをえない。
われわれは本質を解明するためには、『ハズ社会主義』への訣別を告げるべきことを著者は訴え、」ている(<書証番号略>『アジア』79年5月号)と評価している。
○ 一九九〇年八月二三日付『朝日新聞』(<書証番号略>)で吉田秀和(評論家)は以下のように評している。
「七月から一月くらい、この新聞に連載された本多勝一氏の東ドイツ事情の記事はよかった。前々からいっているように、私はこういう報道こそ読みたい。そこの住民がどう生きたか、どう生きているかがわからなければ、体制の崩壊とか変革の必要とかの議論なんかいくらきかされたってピンと来ない。本多さんのはその逆。生活の中での出来事が主として本人の口から語られる。その上で、氏はことの真相をたしかめるため、地道な努力を重ねる。」と原告のルポルタージュに関する読者としての信頼感を素直に表明している。(なお、この連載は同新聞社から『ドイツ民主共和国』として出版されている。)
○ 『現代マスコミ人物辞典』(二十一世紀書院)(<書証番号略>)によれば、「事実を徹底的に積み上げ、常に『される側』の論理に立って『する側』を告発する“本多ジャーナリズム”を確立する。」と記載されている。更に、『朝日人物辞典』(朝日新聞社)(<書証番号略>)によれば、「一貫して事実をもって告発する態度のルポルタージュで問題を提起している。」と評価されている。
○ 右書評・人物辞典の他に新井直之は、意見書(<書証番号略>)の中で次のとおりのべている。
「ここで原告が述べているルポルタージュの方法は、①まず現場を見るなどして、事実を取材し、②そこで見たり聞いたりしたことをそのまま書く、③もし可能であれば、自分の判断を下す、④しかし見聞しても事実がよくわからぬ場合も大いにあり得るから、そのときは判断を留保する、ということである。―本件著作物は、まさにこの手法を完全に駆使して書かれている。」としたうえで、たとえば、
「私のルポ『カンボジアはどうなっているのか?』はすべてベトナム側からの取材によるものであります。当然ながら、それはベトナムに有利な資料を反映したものとなっています。しかし私自身はまだどちらの側を支持するかを決めておりません。ジャーナリストとしては、とにかくまず現場を見るなどして事実を取材しなければならない。先入観がないとはいえません。ただ少なくともそれにとらわれぬように、取材第一でのぞもうとしています。判断はそのあとです。
ところが、カンボジア側は私の入国を認めませんから、私には取材することができません。もし入国できれば、私はベトナム側についてやったと同じように、カンボジア側できいたすべてを、そのまま活字にして報告するでしょう。見たものすべてそのまま書くでしょう。そうした上ではじめて、もし可能であれば私自身の判断も下すでしょう。「可能であれば」と申しますのは、それでもなお事実がよくわからぬ場合も大いにありうるからです。なぜでしょうか。
それは、ただひとつ、取材が両国とも不自由だからであります。」(「『ハズ社会主義』への訣別を」『事実とは何か』朝日新聞社、一九八四年二四九ページ)また本件著作物である『ベトナムはどうなっているのか?』について、
「ファム・ヴァム・コー事件について愛国仏教会の記者会見に出た日の午後、原告はホーチミン市をゆるがす大轟音を感ずる。しかもその音はいつまでたってもやまない。ベトナム対文連のクイ氏は『あれは雷ですよ』という。だが雷雲はなく、空はきれいに晴れ上がっている。やがて通訳が、『いまラジオ放送で、不発弾の処理をしているから心配なく、とのことです』と教えてくれる。夜になっても、轟音はやまない。レストランに行くと、居合わせた日本人の一人が『あれはね、農民が原野の草を焼いておって、その火が弾薬庫に燃え移ったんですよ』と説明する。原告はこれもデマ・憶測の類かと思うが、ホテルに帰ると、通訳がさっきまた放送があって、『農民の焼いていた野火が弾薬庫に移った』と前の放送を訂正したことを教えてくれる。さらに一〇日余りのち、ある市民が原告にいう。『あれは何者かによる仕業ですよ。何者かが弾薬庫を砲撃した結果だという噂です。』そして最後に原告は、この文章を、次のように結ぶ。『真相はついにわからなかった』。外電が反政府勢力による可能性をほのめかしもしたが、『うわさ以上のものではない』。
つまりここでは、①現場を取材することが許されないから、②体験し、見聞したことをそのまま叙述し、③当局側やラジオ放送のコメントと、町でのうわさを併記し、④最後に『真相はついにわからなかった』として、原告自身の判断は留保する、という書き方になっているのである。」とのべている。
原告は、可能であれば自分の判断を示し、よく分らない場合は判断を留保するという事実に基づく取材態度に徹することでジャーナリストとしての社会的信用を獲得してきた者である。当然のことながら、このような取材方法は今でも一貫しており、何ら変りがない。
2 被告殿岡は原告のジャーナリストとしての本質的部分に不当な非難を加えた。
被告殿岡は本件評論において、
「あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。―本多記者は『足で書く』記者であったはずである。」(<書証番号略>六三頁上段)
「もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか」(同号六二頁下段)
「取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。しかし何よりも問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」(<書証番号略>「本件評論」六二頁中段)
「いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりできない。」(<書証番号略>六三頁上段・中段)
「本多記者は筆を折るべきである」(<書証番号略>同頁中段)
と書いている。これを読んだ読者は原告がかつてと違って「事実を確かめようとしないで」「なげやりな書き方」をするようになり、「足で書く」ことをやめ、記者として「堕落」したと思い込まされる。しかも『諸君!』の発行部数は約四万部(第一九回村田本人尋問調書一一丁)といわれておりその与える影響はきわめて大きい。また『諸君!』に掲載された本件評論を読んだ者が本件著作物を比較してみることは稀有であろう。それまでジャーナリストとして信頼してきた読者が、原告に対して新たにいだく懐疑は単なるイメージ・ダウンにとどまらない。
被告殿岡の違法性はきわめて大きいと言わなければならない。
3 原告の人格・職業への攻撃をしており、この点でも違法である。
被告殿岡は、これまでにみたとおり本件評論において誤った前提事実に基づいて「報道記者としての堕落である」、「本多記者は筆を折るべきである」と書いている。新聞記者である原告に対し「筆を折れ」ということは記者や新聞社をやめろということだけでなく、物を書くことそれ自体をやめろということである。これは文筆家に対する最大級の非難であると同時に、本件著作物の内容についての批判の域をはるかに逸脱した原告本多個人への攻撃・中傷である。
本件著作物の内容についての批判であれば、いかような立場に立った批判であっても表現の自由・言論の自由の領域の問題として大いに認めるべきであることは、第一章において述べたとおりである。しかし批判の体をなさない個人攻撃・非難は、言論の自由とは全く無縁のものである。被告殿岡が思いつきのように述べた「ある種の挑発」(第一七回被告殿岡調書九丁)等というあれこれの弁解の成立する余地のない明白な違法行為である。
五 信用性の低い資料(殿岡テープ)を根拠に原告を非難した
1 本件評論で「現場録音テープ」(殿岡テープのことを指すが、この項では「現場録音テープ」とする)の果した役割
原告はこの点について既に一九八八(昭和六三)年九月二〇日付け、一九九〇年一〇月二日付け各準備書面において主張しているところであるが、本件評論の中でテープが果たしている重要な役割に鑑みて要旨を再度主張する。
(一) 「現場録音テープ」入手が本件評論を書く動機となっている。
被告殿岡は、
○ 「―この原告本多さんの書いた部分についての、―私にとっては明確な反対資料と思われるものを目の前にしましたときに、これはやらなきゃいけないことじゃないかというふうに」(第一五回口頭弁論証人調書一〇丁)考えたのである。
(二) 「現場録音テープ」によって、被告殿岡は本件事件を「殉教」であると信じたのである。
○ 「第一にテープの提供者であるマン・ジャック師が立派な人だから」
○ 「第二は、録音の内容の真剣さである。―録音が下手なこと、勤行ばかりがテープの大半をしめ意図的に作ったにしては構成もまずすぎること、オートバイやマイク移動のような思いがけない雑音がそのままになっていること、―、名簿が外電とも政府発表とも異なっているうえに詳細であること、」(<書証番号略>※『言論人の生態』九―一〇頁)
から、テープの内容について信憑性に確信をもった。その上で、
○ 「殉教であることが真実かというふうに確信を深め」(同調書一〇丁)たのである。
※『言論人の生態』は昭和五六年七月一三日発行であり、本件評論(同五六年五月号)より後に発行されているが、同書は、昭和五四年一月から同五五年一〇月まで『月曜評論』で連載したものをまとめたものであり、本件部分は第一回連載部分である(同調書三丁)。従って、本件評論を書くにあたっての動機・経緯として注目に値するものである。
(三) 本件評論の中で被告殿岡は「現場録音テープ」を根拠として抗議の焼身自殺であると主張した。
本件評論は、一九八一年五月号『諸君!』の五八―六三頁にわたるものであるが、「現場録音テープ」の紹介はそのうち前半の二頁にわたる詳細をきわめたものである。
つまり、被告殿岡が本件評論の前半部分で、テープの存在とテープの内容をもって、本件事件の真相は抗議の焼身自殺であると主張し、このことを読者に第一に理解させようとしたことは否定できない事実である。
(四) 証拠を持つ者と持たざる者という役廻りで原告と被告殿岡を対峙させた。
被告殿岡は、原告の本件著作物を「引用」して紹介した。その「引用」にあたり、「改ざん引用」や「恣意的引用」をなした。かつ被告殿岡は、原告が本件事件を「発表もの」として紹介しているにすぎないにもかかわらず、「この事件について原告本多記者は『焼身自殺等というものとは全く無縁の代物』『堕落と退廃の結果』であるといっている」、「原告本多記者が確かめる方法もないままに断定して書いている」などと、原告が言ってもいないことをあたかも言っているかのように、被告殿岡は書いたのである。
そして被告殿岡は、本件評論という舞台を設定し、自分は「現場録音テープ」という「証拠」を持って本件事件の「真相」が焼身自殺であるとの確信に基づいて主張し、原告は、本件事件の真相を確かめる方法(証拠)もないままに無理心中と断定・主張している「ハノイのスピーカー」という役廻りで対峙させたのである。
(五) 「真実の探究」者は被告殿岡であり、原告は筆を折るべき。
被告殿岡は、右(四)のような“お膳立て”があるからこそ「真実の探究」という大仰な見出し(<書証番号略>『言論人の生態』では「真実は一つ」という見出しであるが、)を付けた上で、原告に対し、
「あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。―『足で書く』記者であったはずである。」(<書証番号略>六三頁)
「取材の自由がないところでは、確かめようがないから何でも書くと考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。」(同頁)
「誤りは人の常といっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、一二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」(同頁)
などと最大級の非難・中傷・悪罵をくわえることがはじめて可能だったのである。
(六) まとめ
本件評論の全体構成からすると、「現場録音テープ」は本件評論の中できわめて重要な役割を果している。「現場録音テープ」という「証拠」がないままに本件評論中に記載されている各「批判」を加えられたとするならば、本件評論はそれだけで正当な批判の範囲を越えた批難・中傷・悪罵として直ちに違法性を有することになる。「現場録音テープ」という証拠がその違法性を阻却する作用を果しているのである。
2 殿岡テープは現場を録音したテープとしての信用性が低い。
(一) 殿岡テープには現場性がきわめて少ない
本章の第一の二の3において述べた通り、殿岡テープは、第一、第二、第三の三つで構成されている。そして第一と第二は住職であるヒエンの署名のある「アピール」および「声明文」を読み上げた部分である。またテープは各々の部分で一端切れており、各々が独立した部分をなしていることが明らかである。(被告殿岡が本件評論で紹介する如く、一連の時間的に連続したテープではない。)したがって殿岡テープは、それぞれの部分が全く別の機会に録音され、その後編集された可能性も十分あるのである。そして右「アピール」、「声明文」は、焼身自殺後も文字として残されていた可能性も否定できない以上、焼身自殺後にヒエン以外の別の人物が読み上げたという推測も否定できないのである。
(二) ところで被告殿岡はこのテープを信用した根拠として、
本件評論の中では
「ベトナム語を解する人には―最後の勤行であることは疑いようがない」と記載があるだけであり、『言論人の生態』(<書証番号略>)では
「マン・ジャック師が立派な人だから」
「録音が下手。意図的に作ったとしては構成もまずすぎる。オートバイやマイク移動音のような雑音がそのままになっている。」
「名簿が外電とも政府発表とも異なっているうえに詳細である」
ことをあげている。しかしながら、
(1) 「マン・ジャック師が立派な人」であるという評価は、『言論人の生態』を読む限り何の証拠にも基づかない被告殿岡の主観にすぎない。また「録音が下手」とか、「構成もまずい」、「雑音がそのままになっている」等のことをもって殿岡テープが信用するに値するものであるかどうかは決め手になるものではない。捏造されたテープであっても同様のことがあり得るからである。
(2) 「名簿が外電とも政府発表とも異なっているうえに詳細である」というが、異なるから信用できるというのは論理の飛躍であって理解に苦しむ。
ところで、原告が入手し本法廷に提出したテープ(<書証番号略>・本多テープ)には名前を読み上げた部分は全くない。そして、原告にテープを送付したマン・ジャック師は本多テープは「いかなる編集もされていないオリジナル・テープ」(<書証番号略>)であり、「テープには十二人の名前はありません」(<書証番号略>)と説明している。更に、既に本章の第二の1の(三)でのべたように、本多テープの方が殿岡テープよりも録音状態が良いことも明らかになっている。つまり本多テープは殿岡テープを編集したものであるとの推定はなり立たないのである。この二本のテープは、それぞれ別々につくられたと考える余地が十分にある。そのため殿岡テープに名前を読みあげた部分があること、その名簿の内容から信用性が高いテープと断言することはできない。
(3) 被告殿岡は本件評論の中で「ベトナム語を解する人には、このテープが焼身自殺を覚悟した十二人の僧尼の最後の勤行であることは疑いようがない」と解釈している(<書証番号略>五九頁中段)。しかし、ベトナム語を解する人は、逆に殿岡テープは到底最後の勤行と言い難いと言ってその信憑性を疑っている。(むしろ本多テープの方が最後の勤行のような荘厳さがあるともいう。)ベトナム語を解するベトナム人が殿岡テープが最後の勤行と思えないとする最大の根拠は第三部分の歌である。
第三部分は四つの曲、即ち①薬師禅院の仏教歌、②歌・僧の小屋、③歌(詩らしきものの朗読の後)歌・昔の寺を偲ぶ、④歌・救世釈迦で構成されている。
右②及び③の歌は流行歌(元歌)を替え歌にして歌っているもの。歌を知っている者なら、少なくとも最後の勤行時に白鳥の歌として歌うものではないというのである(<書証番号略>)。
(4) 被告殿岡の本件評論及び『言論人の生態』によると、被告殿岡は、マン・ジャック師にテープが入手されるまでの経過等について問いただした様子が全くない。テープの作成・入手経過はテープの信用上きわめて重要であり、聞き落としたり書き落としたりするはずがないことである。これほどまでにテープを信用する被告殿岡が入手経路に全く関心がなかったということは、きわめて不自然であり到底考えられないことであるが、ともかくこの点でも殿岡テープの信用性はきわめて低いと言うことができる。
一言付言すると、あるいは被告殿岡は本件評論を執筆する際に「録音テープ」の信憑性に疑いをもちながらも(同人が当時、国立大学に籍を置く政治学者であったから、資料の真偽や価値を評価する能力を当然有していたとの前提に立っての話であるが、)、その疑いを一切隠蔽したうえで原告に非難・中傷を加えたのではないかという可能性も否定できなくなっている。なぜなら、被告殿岡が「テープ」の作成・入手経路について疑問があることをも記載して本件評論を執筆したとすれば、せいぜいテープの存在と内容を紹介するにとどまらざるを得ず、原告を非難・中傷するまでの暴挙は到底できなかったからである。入手経路について全く無関心を装いつつ、あえて信憑性の低い「殿岡テープ」を最大限利用して、原告を非難・中傷したのではないかとの疑いも抱くことすら可能なほどである。
六 本件評論は、民法の不法行為及び著作権法上の著作者人格権の侵害に該当する。
1 本件評論は不法行為(民法七〇九条)に該当する。
被告殿岡は本件評論において本件著作物を引用するにあたり、「架空の引用」・「恣意的引用」をなして本件著作物の内容を捏造し、原告が捏造した内容を書いたとして非難・中傷し、最後には「筆を折れ」とまで個人攻撃を加えたのである。更に信用性の低い「現場録音テープ」の存在とその内容をもって、原告を「批判」したのである。被告殿岡の行為は、明らかに民法七〇九条の不法行為に該当する。
2 本件評論は著作権法に違反する。
著作権法三二条一項は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。」ことを定めているが、同時に「その引用は、公正な慣行に合致するものでありかつ、報道、批評、研究その他の利用の目的上正当な範囲内で行われるものでなければならない。」ことを定めている。
また、同法一一三条二項には、「著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、その著作者人格権を侵害する行為とみなす。」ことを定めている。
ところで本件評論において被告殿岡は、本件著作物の一部を「引用」して本件著作物を「利用」している。ところがこの引用は著作権法三二条一項にいう「公正な慣行に合致するもの」でないことは明らかであるし、同法二〇条一項にいう著作者の同一性保持権を害する行為である。また著作者たる原告の名誉又は声望を害する方法(同法一一三条第二項)により原告の著作物を利用した行為に該当することも明らかである。
したがって、被告殿岡の行為は、引用違法(同法三二条一項・二〇条一項)だけでなく、著作者人格権を侵害する(同法一一三条二項)に違反する。
第三 被告村田、同堤の違法行為
一 被告村田の違法行為
1 被告村田は一九八一年五月号『諸君!』の編集責任者である。
被告村田は昭和三五年被告文春に入社し、昭和五四年九月より『諸君!』の編集長に就任し、本件評論が掲載された一九八一年五月号『諸君!』の編集・発行人の地位にあった。
本件評論を「掲載した権利も義務もすべて当時の編集長である」被告村田に存することは、同人自身も認めているところである(村田調書六丁裏)。編集責任者は本件評論の掲載権限を有しているとともに、本件評論の内容についても適否を判断する義務を負っており、本件評論が違法であれば掲載責任者たる被告村田にも責任が生ずること疑いのないところである。
2 被告村田の供述によれば、本件評論は被告村田の下で企画立案された際に、編集部員の一人から『月曜評論』での殿岡評論を指摘され、被告村田も本件著作物を読んだうえで本件評論を掲載したとしている。
本件評論では、原告に対し「報道記者としても堕落である」あるいは「本多記者は筆を折るべきである」との最大級の非難を行なっているのであるから、これらの根拠について十分な検討を行うべきであった。
ところが、被告村田は当然負うべきこれらの義務を尽くさず、本件評論を『諸君!』に掲載したのである。
3(一) ところが被告村田は、本件評論は「決して中傷でも、攻撃でもないと思いました」と弁解する(村田調書四丁裏)。
被告村田は本件事件に関する本件著作物の内容は「ハオ師の文章だとしていることは確かで」あることを認め、他方、本件評論では「本多さんが焼身自殺などというものとは全く無縁の代物であると言っている」文章であることを認めている(村田調書二四丁裏)。
だとすれば、本件評論と本件著作物の内容が異なっていることは明白であり、本件評論が本件著作物を歪曲していることを理解しているはずである。
しかしながら、被告村田は本件評論が、本件著作物の内容を歪曲していることを否定する。
この点につき被告村田は、ハオ師の文章か否かで判断を行なうのではなく「単行本全体の中で評価します」とか(同二五丁表)、本件著作物の本質は付録の「文章に凝縮されて」いる旨(同四丁表)等の弁解を行なっている。
しかし、これらの弁解が何らの根拠をもたないことは前項で述べたとおりである。
(二) また、被告村田は本件評論中の「恣意的引用」について次のような弁解を行なっている。
すなわち、原告代理人の「恣意的引用」部分について、
「これは、当然前の文章のつながりからすれば、本多さんが述べた内容と読めるんではありませんか」
との問いに対し、
被告村田は、
「本多さんの本にこう載っているということですね」と答えている(同一九丁)。
本件評論における右「恣意的引用」の部分は、ハオ師の言葉をあたかも原告が述べた内容としか読み取ることが出来ないような誤った引用を行なっている箇所である。
本件評論における「架空の引用」や「恣意的引用」が誤っていることは中学生程度の能力さえあれば、十分理解できる。
被告村田の右供述は、強引なこじつけとしか評しえないのである。
被告村田が真実本件著作物の内容を検討していたとしたら、本件評論は掲載すべきでないと容易に判断が可能であったはずである。
4 以上のとおり、被告村田は被告殿岡とともに民法上および著作権法上の違法行為責任を免れることは出来ないのである。
二 被告堤の違法行為
1 被告堤の違法行為の内容
被告堤は、前記第二章一2記載のとおり、一九八一年四月、被告村田から『諸君!』を引き継ぎ、一九八六年六月まで、同誌の編集・発行人の地位にあった。
本件評論に対する原告からの反論文掲載請求等の折衝に当たったのが被告堤である。後述するとおり、原告をして本件訴訟に踏み切らせたのが、被告堤の違法行為にあったといってもけっして過言ではないのである。
そこで、被告堤の違法行為であるが、被告堤は、原告に対して、
第一に、被告文春が原告に約束した原告の投稿掲載を妨害してこれを破棄させ、第二に、被告文春が原告に対して負っている原告の訂正・反論文掲載を明確な理由も示さずに一切拒否したばかりか、原告との話し合いすら拒絶し、第三に、右の過程のなかで、原告を愚弄し、原告の被害感情をさらに悪化させる
などの行為をなした。
以下分説する。
2 原告の投稿を掲載する約束(合意)の実行を妨害し、合意を破棄させた行為
(一) 被告文春は、一九八一年四月、本件評論に対する原告の投稿(<書証番号略>)を『諸君!』一九八一年七月号に掲載する約束をした。ところが、被告堤は、自身が『諸君!』編集長でありながら、一方的に右約束の実行を妨害し、破棄させてしまった。
その経過は次のとおりである。
(1) 一九八一年四月二一日、原告は本件評論に対する意見として、「あきれた先生」と題する原稿を『諸君!』の「読者諸君」という投書欄に投稿した(<書証番号略>)。
(2) 一九八一年四月二七日消印の葉書で、原告の投稿は「次号(注―一九八一年七月号)にて掲載させて戴く予定でおります」旨の『諸君!』編集部名の通知(<書証番号略>―葉書)が郵送される。
(3) その後、一九八一年六月一二日消印の葉書で、「投書欄担当子と致しましては「読者諸君」に掲載予定でおりましたのですが、後日編集長(注―被告堤のこと)より内容から判断して掲載にあたいしない旨の判断があり中断致しておりました」旨の通知(<書証番号略>―葉書」が郵送された。
―結局、被告文春は、原告の投稿を七月号のみならず、その後発行された『諸君!』誌にも掲載しなかった。
(二) 被告堤の右行為が、被告文春の違法性とは別に、独自の違法性を帯びるのは以下に述べるとおりである。
(1) 原告の右投稿はひろい意味での反論権の行使である。
本件評論の存在及びその内容を知った原告は、本件評論しか読んでいないであろう『諸君!』の読者に対して、原告の本件著作物の全文を読むことによって、本件評論がいかにひどいものであることがわかるであろうことを『諸君!』の「読者諸君」欄に投稿した。右投稿は、いわゆる投書欄への投稿という形式をとってはいるものの、本件評論によってジャーナリストとしての評価を著しく毀損された原告が、本件評論の読者に対して、原告の誤った評価を是正させるための一方法といえるのであって、ひろい意味で反論権の行使と評価することができる。
(2) 『諸君!』編集部からの四月二七日消印の葉書は、同編集部が、原告の投稿を掲載する約束をしたことのあらわれである。
被告堤は、本人尋問において、この葉書について、「その担当者としては、予定にしていますよという、予定ですよという知らせをしたということで」と供述している(被告堤調書(第二回)一丁裏)。
しかしながら、この通知(葉書)は、単なる掲載予定通知ではなく、はっきりした掲載約束の表明である。
なぜなら、雑誌の編集者が、読者投書欄の投稿者に対して、事前に掲載予告通知を出すことは、ジャーナリズム界の慣行上も全く例をみない(証人筑紫哲也調書二五丁裏)ところであるし、現に被告堤自身でさえも、同旨供述しているからである。
このように、編集者の実務上も例をみないこのような掲載予定は、明らかに原告の投稿を掲載する約束をしたことにほかならないのである。
(3) しかも、もともと、被告文春には、原告に反論文を掲載させる義務があった。
筑紫哲也氏が証言するように、「編集権に基づいて作った誌面がある個人の人権だとか名誉だとか、あるいは職業的な生命とかいうものを非常に傷つけた場合には、それが明らかに過ちである場合にはそれに対してしかるべき対処をするというこの度合いは高いのは当然のこと」(証人筑紫哲也調書三八丁)であって、被告文春には、反論文掲載等のしかるべき対処をする義務があったものである。原告の投稿の実質は前述のとおり反論権行使の一方法であったのであるから、これに対する「掲載予告」通知は、原告のこのような反論権行使に対して、同誌に掲載することによって原告に反論権行使の場を保障するという、いわば原告の申し込みに対応する承諾の意思表示と解せられるのである。この意味で、右「掲載予告」は、原告の実質的反論文掲載要求に対応してなされたものであるから、単なる投書に対する通知(仮に、右に類する通知がなされたとして)と性質が異なるのは明らかである。
(4) 以上から、この「掲載予告」は、被告文春が原告に対して、読者の誤った評価を是正する一方法として原告が掲載を要求した投稿を同誌七月号に掲載する約束をしたものと解するのが極めて自然である。そして、この約束を法的にみると、原告の投稿(申し込み)に対して被告文春が同誌七月号に掲載する旨表明(承諾)したことによって、原告は被告文春に対するいわば投稿掲載請求権を取得したものであるということができる。この原告の請求権が、法的に保護されるべきであることは当然である。
なお、ここで被告堤の弁解に触れておく。被告堤は、右約束は、編集部員が単独でなしたものであって、会社としての約束ではないかのごとく強弁する(被告堤調書(第二回)七丁裏)。しかし、右通知(葉書)は、『諸君!』編集部名で発信されているのであるから、被告堤の弁解が検討するに値しないものであることは贅言を要しない。
(5) 被告堤は、原告と被告文藝春秋の間で成立した約束(合意)に基づく履行を妨害し、被告文春をして約束を破棄させた。前述のとおり、被告文春は、一九八一年六月一二日消印の葉書で、原告に対し、要旨、(イ)原告の前記投稿は掲載しないこと、(ロ)これは編集長(注―被告堤)の判断によるものであることを通知した。
この通知は、原告の投稿をめぐり『諸君!』編集部内で編集部員と編集長の間に衝突があったことを窺わせて興味深いものがあるが、それはさておき、この文面によると、編集部員である「投書欄担当子」は、原告との約束に基づき原告の投稿を掲載するつもりであったが、被告堤が、その掲載を止めさせたというのである。被告堤のこのような行為は、俗に横車という。結局、被告堤が横車を押したことによって、原告の投稿は陽の目をみずに終わったのである。
要するに、被告堤は、原告と『諸君!』編集部との間で成立していた原告の投稿を掲載する約束(合意)の実行を妨害し、被告文春をしてこれを破棄せしめたことにおいて、原告の前記掲載請求権は行使の機会を失ってしまったのである。
前述のとおり、原告と被告文春との間には、四月二七日消印の葉書(なお、この葉書には、後の六月一二日消印の葉書のような徴候は一切窺えない。この段階では、編集部内での意見の対立はなかったものと思われる)により、原告の投稿を掲載する合意が成立していた。
ところが、七月号に掲載する段階に至って、突如、被告堤が掲載を妨害する挙に出たため、結局、被告文春をして、その実行を不能ならしめたのである。
被告堤のこのような行為は、被告文春が約束した掲載の実行を、編集長としての職権を濫用して、被告文春に破棄させるに至らしめたのであるから、債務不履行の当事者は、被告文春であるとしても、いわば第三者による債権侵害として、被告堤は独自の不法行為を構成するといわなければならないのである。
3 原告が請求した反論文の掲載を拒否し、原告からの協議をも拒否した行為
(一) その後は、原告と被告堤との間で、本件評論に対する原告からの訂正・反論請求に関して以下の交渉があったが、被告堤は明確な理由も示さず一貫してこれらを拒否するなど不誠実な態度に終始した。
(1) 一九八一年七月七日付けで原告は『諸君!』編集長宛、同誌上(投書欄ではなく)に原告の反論文を掲載する意思の有無の回答を求める手紙を発信する(<書証番号略>)。
(2) 同七月一八日付けで原告は、同編集長宛、右(1)に対する回答がなかったことを確認するとともに本件評論を他誌に引用することの了解を求める手紙を発信(<書証番号略>)。
(3) 右(1)、(2)の書簡に対して同編集長(注―被告堤)からの回答がないため、同七月二五日付け申入書(代理人森川金寿弁護士作成)の書面を発信する(<書証番号略>)。
(4) これらに対してようやく同七月二八日付けで被告堤から、「『反論に類するもの』とやら」が送られれば、掲載するかしないかは検討する旨の手紙が到達した(<書証番号略>)。
(5) 一九八三年三月一二日付けで原告は、編集長被告堤宛、『東京学芸大学学長と同教授会への公開質問状』と題する原稿(<書証番号略>。以下、単に『公開質問状』という)を同封のうえ郵送する(<書証番号略>)。
(6) 同四月一九日、この『公開質問状』に対して、被告堤は、同『公開質問状』の原稿を原告宛返送するとともに掲載を拒否する旨の回答をよこす(<書証番号略>)。この回答は、(ア)本件評論が二年前のものであること、(イ)『公開質問状』が、「学芸大学学長および教授会に宛てることを目的に書かれたもので」あり、大学当局がこれについて返答し、被名宛人として処理ずみであることを主な理由とする。
(7) 同五月二六日付け到達の書簡で、原告は被告堤宛、右『公開質問状』を再度同誌に掲載するよう求めた(<書証番号略>)。
原告は、右回答に対する反論として、
(ア) 本件評論が二年前のものであることは掲載拒否の理由になるものでない(『諸君!』の扱っている文章の中には一〇年も二〇年も前のことがいくらでもある)こと
(イ) また、このように延びてしまった原因は、一旦掲載約束をした原告の投稿を被告堤が掲載拒否したことによるものであること
(ウ) 形式は、学芸大学学長宛になっているが、実質は公開質問にあるのであるから『諸君!』に掲載されなければ意味がないこと
(エ) したがって、大学当局が原告に返答をしたとしても右理由によって意味がないことを述べて再考を促した。
(8) これに対して被告堤からなんらの回答もないため、原告は同年一〇月一三日付け到達の『確認・通告・要求書』と題する書面を内容証明郵便により被告堤宛通告した(<書証番号略>)。これは、(7)と同様『公開質問状』を同誌に掲載することを求めるものである。この書面の中で、原告は、多忙なため反論文の原稿が遅れていることのことわりを一九八一年一二月二〇日付けの葉書で、編集長宛知らせたとの事実を書いている。
(9) 同年一〇月一四日、被告堤は内容証明郵便で、原告宛、「貴翰一九八三年五月二六日付に示された再要求の事由については見解の相違としかいいようがなく」、答える必要を認めなかった、原稿は「今一度だけ」返送するが、「三度び送付された場合、当方において処分」する旨通知した(<書証番号略>)。
(10) これに対し、原告は、一一月二二日付け内容証明郵便にて、被告堤宛、本件評論の誤りの部分を訂正し、謝罪文とともに同誌上で発表すること、その具体的方法については原告と協議することを求め、これについて、同年一二月二五日までに回答するよう催告した(<書証番号略>)。
(11) 右期限から二か月余を経過しても、被告堤からは誠意ある対処はおろかなんらの回答もなされなかったため、原告は、さらに一九八四年二月二九日付け内容証明郵便で、『諸君!』一九八四年五月号に、右(10)の訂正及び謝罪文を掲載すること、その具体的方法について原告と協議すべく、書面到達後一週間以内に誠意ある回答するよう催告した(<書証番号略>)。
(12) 被告堤からは、同年三月六日付け内容証明郵便で、要旨、原告の「『要求書』なるものは、『何を要求しているのかわからぬ要求』としか受け取れ」ないので、本来回答する必要を認めない旨の書簡が届いた(<書証番号略>)。
(13) 右の書簡に対して、原告は、翌七日、ただちに被告堤宛、『再要求書』を送った(<書証番号略>)。
この中で原告は、被告堤の右「回答は、自ら紛失したものを他人に探せと言っているだけのこと」で、「訂正すべき内容、すなわち間違いの具体的内容は、以前送った原稿『東京学芸大学学長と同教授会への公開質問状』に詳細に書かれてい」ると被告堤に指摘している。
(14) 被告堤は、同三月九日、原告の『公開質問状』についての被告堤の見解は「一九八三年四月一九日付(注―(6))及び一〇月一四日付(注―右(9))にて示したとおりで」あること、「四度びこれ(注―『公開質問状』)を送付されてきた場合、今度こそ間違いなくクズ籠に直行させることを通告してお」くことを内容証明郵便で原告に「通告」してきた(<書証番号略>)。
(15) このような「通告」に対して原告は、『再確認・再要求書』と題した書簡を被告堤に送った(<書証番号略>)。これは、被告堤に対する原告の最終の通知書である。
原告は、本件評論には「基本的事実のひどい誤りがあり、その具体的指摘がこの原稿(注―『公開質問状』)には示されて」いることを改めて指摘したうえで、『諸君!』が、「投書欄という最小限での場での私の発言さえ封じたばかりか、その後の私のいかなる要求をも拒否し」てきたかを明らかにし、「最後にもう一度要求します。具体的方法については直接相談するとして、『諸君!』の次号で締切に間にあうよう訂正・謝罪あるいは私の反論に類する原稿を公正に掲載すべく、折返し誠意ある回答をして下さい」と結んでいる。
この中で原告は、本件問題を被告堤の「ジャーナリストとしての良心に訴えて、できれば国家権力の裁断をまたず、ジャーナリスト同士の良識内でかたをつけたいと考え、何度も繰返し要求してきた」のであると、自身の真意を披瀝している。
(16) しかし、被告堤からは、同三月一五日、木で鼻をくくったような『回答書』が内容証明郵便で送られてきただけであった(<書証番号略>)。
(二) 右に述べた経過のなかから浮かび上がってくるのは原告の反論文掲載等の要求に対する、異常とも思える被告堤の頑な拒絶の態度である。被告堤の態度は、あたかも、原告からの要求はなんであろうとすべて頭から拒否・拒絶する意図であったと疑われてもやむを得ないものがある。このことを示すものとしては、前記の経過のなかから以下の事実を摘記すれば足りよう。
(1) 被告堤は、原告の要求を明確な理由も示さず一貫して拒否し続けた。
(ア) 原告の投稿(<書証番号略>)の掲載拒否について
被告堤が、原告と被告文春との間で成立した投稿掲載の約束を妨害したことはここでは措くとして、被告堤は、妨害するにあたって、『諸君!』の「投書欄担当子」に「内容から判断して掲載にあたいしない」と申し向けた由であるが、原告の投稿は前述のとおりいわば反論権の行使に当たるのであるから、掲載を拒否するについては少なくとも明確な理由は付すべきである。
(イ) 原告の『公開質問状』(<書証番号略>)の掲載拒否について
これについては、前記のとおり被告堤は、一九八三年四月一九日の書簡(<書証番号略>)において、(ア)本件評論が二年前のことであること、(イ)『公開質問状』が東京学芸大学学長等に宛てることを目的に書かれたものであり、大学当局がこれについて返答して被名宛人として処理済であることを理由に掲載拒否を回答してきた。
しかし、これに対しては原告の一九八三年五月二六日付け書簡(<書証番号略>)による批判が妥当する。
すなわち、(ア)本件評論が二年前のものであることは掲載拒否の理由になるものでない(『諸君!』の扱っている文章の中には一〇年も二〇年も前のことがいくらでもある)こと、(イ)また、このように延びてしまった原因は、一旦掲載約束をした原告の投稿を被告堤が掲載拒否したことによるものであること、(ウ)形式は、学芸大学学長宛になっているが、実質は公開質問にあるのであるから、『諸君!』に掲載されなければ意味がないこと、(エ)したがって、大学当局が原告に返答をしたとしても右理由によって意味がないこと、である。
この原告の反論に対して被告堤からは、なんら明確な回答もなく、ただ「見解の相違」と弁解するだけであった。
そもそも、再三にわたって述べているように、本件評論には基本的部分において決定的な誤りがあり、かつそれを原告が具体的に指摘しているのであるから、被告堤において原告の反論文等の掲載要求を拒否することが可能なためには、最低限「本件評論には誤りがないから、原告には反論文等の掲載請求権はなく、被告文春には、原告の反論文掲載の義務はない」とでもいうべきであろう。
しかし、被告堤は、本件評論の誤りに関する原告の具体的な指摘に対して、直接答えようとはせず、皮相な事柄をあげつらって原告の反論権行使を封殺してきたのである。
(2) 被告堤は、原告が指摘したにもかかわらず本件評論の誤りについての検討を怠った。
すなわち、被告堤には、雑誌の編集長として、自社発行にかかる出版物中にいやしくも改竄や歪曲・捏造の謗りを受けるおそれのある箇所が存し、その旨の指摘を受けた場合は、すみやかに当該部分を検討し、しかるべき対処をすべき義務があるのにもかかわらず、これを一切怠った。ことに本件評論の誤りは、被告堤のように編集者として豊富な経験を有する者にとっては、きわめてわずかな注意を払えば容易に発見できる程明瞭な誤りであったのであるから、これを怠った被告堤の責任は重いといわなければならない。
被告堤自身、「事実誤認とか、そういうことがあった場合は、訂正するにはやぶさかじゃないんですよね。」と言っているのであるから(被告堤調書(第二回)五丁裏)、本件の場合、なぜ「訂正」ができなかったのか、その底意を疑われてもやむを得ないところである。
(三) 被告堤は原告からの再三にわたる協議の申し入れをことごとく拒絶してきた。
本件のような反論文掲載請求がなされた場合、その請求を受けた雑誌の編集部としては、まず、その請求者と協議に入るのがジャーナリズム界の常道である(証人筑紫哲也調書二一丁裏、二二丁表)。そしてその協議を軸にして、民主主義社会のジャーナリズムは、その自浄作用を発揮してゆくことが期待されているのである。
ところが、被告堤は、まず、原告の投稿の掲載を拒否するに際し、全く原告と協議することなく、且つなんら明確な理由を示すことなく、一方的に拒否し、その後も、一切の協議を拒絶してきた。とくに、原告が一九八三年一一月二二日付け書簡と翌年二月二九日付けの書簡(<書証番号略>)において、被告堤に対し、訂正文の掲載を請求し、同時にその具体的方法についても協議を求めたにもかかわらず、被告堤は、同年三月六日付けの回答書(<書証番号略>)において「誤りの部分が明示されていない以上判断の仕様もありません。」などと驚くべきことを書いてよこした。
前記『公開質問状』(<書証番号略>)を一読すれば、本件評論の誤りの部分はきわめて明瞭であるから、同質問状を「精読かつ検討」(<書証番号略>、被告堤の一九八三年四月一九日付け書簡)したという被告堤が「誤りの部分が明示されていない」と述べること自体奇異なことではあるが、仮に被告堤の弁解するとおりであったとしても、原告が具体的方法について協議を求めてきているのであるから、これに応じて協議すれば簡単にこの問題は解決したはずなのである。
要するに、最後まで協議を拒否した被告堤の頑な態度の根底には、反論文であろうと訂正文であろうと、一切原告の要求には応じないという原告に対する害意が当初から潜んでいたからであるとみてもあながち的外れとはいえないように思われる。当法廷における「(協議の)申入れをする必要を認めなかったのです。」との供述は、被告堤の底意をいみじくも露呈したものであろう(被告堤調書(第二回)一五丁裏)。
4 原告に対する回答書簡における愚弄行為
被告堤は、原告の反論文掲載請求の書簡に対して回答するに際し、ことさら、原告を愚弄し、原告の被害感情を悪化させた。これは、原告に新たな精神的苦痛を与えている点において、被告堤の違法性を増す要素であるが、一方、前述の被告堤の原告に対する害意の存在を示す徴候ともいいうるのである。
(一) 被告堤は一九八一年七月二八日付け書簡(<書証番号略>)において、「七月七日の書簡について、七月一八日付けの書簡にいわく『お返事できなかったことを確認します。』と確認してくださっている以上、小生としては、返信の用を認めませんでしたが」とのべている。確かに原告の七月一八日付け書簡(<書証番号略>)中には「お返事がなかったことをここに確認いたします。」との部分は存在する。
しかし、その趣旨は、右書簡の全文を読めば明らかなように、原告が右七月一八日付け書簡の封筒に、以前被告堤宛に郵送した七月七日付け書簡(<書証番号略>)のコピーを同封し、「その七月七日付け書簡に対して被告堤から返事がなかったことを確認する。」と表現することによって、被告堤がその七月七日付け書簡に対して返信してこない不誠実さを非難するとともに、万一、被告堤が返信を発信したにもかかわらず郵便事故により到達していない場合も慮って、被告からの返事がない事実を、被告堤に通知、確認しようとしたものである。
日本語の一般的な解釈としても、右「お返事がなかったことをここに確認いたします。」との文章が「もう、返信を要しない。」という意思表示と解釈される余地はない。これを被告堤のように「返信を要しない。」との意思表示と解釈するのは、明らかに原告を愚弄するための意図的な曲解をしたのであるとしか判断することはできない。
(二) 被告堤の一九八四年三月六日付け書簡(<書証番号略>)について被告堤は、右書簡において
書簡一九八三年一一月二二日付けに「その誤りの部分」について明示されていない以上、判断の仕様も回答の仕様もありません。通常、訂正を求める際には、ここがこう間違っている、よって………という文脈で要求するものではないでしょうか。当方は、これまで貴殿からそのような意味での訂正要求を唯の一度も受けておりません。(中略)
よって書簡一九八四年二月二九日付けにいう「前便で要求したような訂正も」、何のことやら判断できず、要するに二度にわたる貴殿の「要求書」なるものは、「何を要求しているのかわからぬ要求」としか受け取れません。
と回答している。
しかしながら、被告堤は原告の前記『公開質問状』を「精読」(<書証番号略>―被告堤の回答書)しているというのであるから、本件評論には、ハオ師の発言を原告自身の見解にすりかえている点などの誤りがあることは、容易に理解できたはずである。しかし、被告堤の前掲書簡には、右に挙げたとおりこのことには一切触れられていないばかりか、被告堤はむしろ無知を装うことによって、原告を愚弄しているのである。
(三) なお、被告堤が、本法廷における被告本人尋問に際しても、きわめて不誠実な供述態度であったことも指摘しておかなければならない。原告代理人の尋問に対して被告堤は不真面目な態度に終始し、殆どまともに答えなかった。
このように法廷における態度からも、本件に関して被告堤が原告に対して行った行為の底に潜む害意が推し量られるのである。
5 結語
被告堤は、きわめて豊富な経験を有する編集者として、たとえば発行誌紙に明白な誤りがあって原著者から訂正反論文等の掲載請求がなされた場合においては、すみやかに最新の発行号に右反論文等を掲載するのがジャーナリズム界の常識であることを十分知悉していた筈であるにもかかわらず、かえって、すでに約束されていた反論権の行使(投稿)さえをも妨害したばかりか、その後も一貫して原告の反論文掲載等の請求を拒否するというジャーナリズムのルールを著しく逸脱した行為をとることによって、原告に多大な苦痛を与えた責任を免れないのである。
第四 被告文春の違法行為
一 被告文春は、書籍の出版・発行等を主たる営業内容とする株式会社であり、雑誌『諸君!』の発行所である。
右雑誌『諸君!』は一九八一(昭和五六)年四月に発売された「5月特別号」に本件評論を掲載した。
二 被告文春は、被告村田、同堤を雇用し書籍の出版・発行の業務に従事させて同被告らを使用しており、被告村田は右『諸君!』が本件評論を掲載した右「5月特別号」の「編集兼発行人」であった。また被告堤は『諸君!』6月号から被告村田に替わって同誌の「編集兼発行人」になった。
三 従って被告文春は、使用者として被告村田、同堤が『諸君!』の「編集兼発行人」たる業務を行なうについて原告に加えた損害を賠償する責任がある。
また、被告文春が「発行所」となって本件評論を掲載した『諸君!』を発行し原告の著作者人格権を侵害し、かつ原告に損害を生じさせたことは、被告殿岡、同村田との被告文藝春秋の共同不法行為であり、また『諸君!』が原告の『諸君!』の「読者諸君」欄への投稿の掲載を拒否し、その後も原告の反論の掲載を一切拒否し原告に損害を生じさせたことは、被告殿岡と被告文春との共同不法行為にあたる。
第五 本件に適用されるべき被害回復措置
一 はじめに
既に述べたことから明らかなように、被告らの行為は原告の名誉を侵害する不法行為に当たるとともに、著作者人格権の侵害にもなる。被告らの右侵害行為によって原告はジャーナリストとしての社会的信用を著しく害されるとともに、精神的にも多大な損害を被っている。
本件における被害回復措置として、原告は被告らに対し、以下の三つの救済措置を求める。
第一に、原告のジャーナリストとしての社会的信用を回復するのにもっとも適した方法として被告文藝春秋に反論文の掲載を求める。
第二に、被告ら全員に対し謝罪文の掲載を求める。
第三に、被告ら全員に原告が被った精神的損害の賠償を求める。
以下において、右被害回復措置について詳述する。
二 被告文春に対する反論文掲載請求
1 反論文掲載請求の根拠
反論文の掲載請求の根拠は、民法七二三条及び著作権法一一五条であり、反論文の掲載は、民法七二三条の「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」及び著作権法一一五条の「名誉若しくは声望を回復するために適当な措置」に当たる。
2 民法七二三条と反論文の掲載
(一) 反論権の保障と実情
反論文の掲載請求権は、一般に反論権と称されており、マス・メディアに対するアクセス権の重要な一部をなすものと考えられている。反論権とは、新聞、雑誌あるいはラジオ、テレビで、名指しで、あるいは特定化されて攻撃され、あるいは誤った報道をなされたすべての人に、同一のメディアに対し、反論文の掲載を請求しうる人権保護のための権利として、多くの欧米諸国において実定法上保障されている。わが国にあっても、戦前の新聞紙法一七条一項や現行の放送法四条一項により保障されている。
この反論権は、不法行為(名誉毀損)が成立すると否とを問わず認められているが、とくに名誉毀損が成立する場合には、民法七二三条の「名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分」に当たると解さねばならない。
その理由を以下に述べる。
(二) 反論権の歴史と普遍的性格
反論権の歴史は、遠くフランス大革命にまで遡る。
「偉大なフランス大革命の経過の中で生じたフランス国内における政党間の激烈な抗争は、法律家による最も重要な『発明』、すなわち、反論請求権を誕生せしめるに至った。当時、初めて出版物の攻撃によって名誉を毀損された者に対して、世間という対等の法廷で反論する権利を容認する、という着想が生まれたのである。」(注一)
フランス(注二)、ドイツ(注三)、ベルギー(注四)などでは、すでに一九世紀に出版法によって反論権が保護され、現在ではヨーロッパの一三ヶ国が、現代的な反論権の制度を持つに至っている(注五)。またアメリカでは、いくつかの州法が反論権の制度を有している。「かくして反論権は、ほとんどすべての現代出版法の必要不可欠の構成要素となって」おり、「万能を誇る現代マスメディアに対抗する人権保護のための必須の手段」(注六)だと考えられるに至っている。「マスメディアの側からの世論に対する一方的な影響という危険を本質的に阻止しうるのは、被害者の権利、被害者側から直ちに『反論権』を行使して世間という対等の法廷で発言する権利である。」(注七)
そしてこのような反論権は、今や国境を超えて広がりつつある。たとえば、ヨーロッパ会議は、一九五〇年に「人権の擁護および基本的自由の擁護のための条約」を採択したが、その附属議定書は、調印国の裁判権に従う全ての個人および法人に、反論権を承認している。(注八)
また、国連総会では一九五二年に「国際反論権に関する規約」が承認されている。(注九)
(三) わが国の学説と判例
(1) 消極説への批判
わが国の学説のなかには、被告も<書証番号略>で挙げているように、反論権に対し、若干の反対意見がある。しかしこれらの反対意見には、いずれも合理的根拠がない。
① 幾代通教授の見解(<書証番号略>)への批判
まず幾代通教授の「新聞による名誉毀損と反論権」(<書証番号略>)をとりあげてみると、幾代教授は、「反論の内容が、いわば『過剰反撃』になったり、逆方向や別方向への名誉毀損など不法行為を構成するなど、紛争の解決をめざしながら却って紛争の拡大や深刻化をもたらすという弊害はないか」と主張している。しかしこれは、きわめて簡単に処理することができる。反論文が、相手方や他の人の名誉毀損に当るものであれば、裁判所は、そのような反論文の掲載は、民法七二三条の「適当ナル処分」に当たらないものとして、そのような反論文の掲載を命じなければよいのである。反論権保障の先進国であるフランスでも、反論文の内容からする反論権の制限として、「法令および良俗に違反しないこと」、「第三者の正当な利益を侵害しないこと」、「新聞記者に対する名誉毀損にわたらぬこと」などをかかげている(注一〇)。このフランスの制度は、わが国の裁判所が民法七二三条の「適当ナル処分」に当たるか否かを判断するに際し参考となろう。
また幾代教授は、名誉毀損たる不法行為の救済手段として「ほとんど実益がないのではあるまいか」というが、名誉毀損の場合をも含みこむ反論権が、早い国では一九世紀初頭から保障され現代に至っていること、二〇世紀に入ってからも反論権を保障する国がふえてきていること、現在ではマスコミの寡占化、巨大化がますます進行し、その影響力が圧倒的に強力なものになってきていること、名誉毀損の被害者の救済として、金銭賠償あるいは謝罪文の広告だけでは不充分であり、反論権を認めることにより初めて十分な救済がなされうるケースが現実に存在すること(この点は次の項で本件に即して具体的に明らかにする)を考えれば、実益がないなどとは到底いえない。
さらに幾代教授は、マイアミ・ヘラルド社事件についての一九七四年六月二五日の連邦最高裁判決にもふれながら、第一に、「反論権を法認することは、公共的問題についての民主的で自由な討議を萎縮させ、国家権力による言論統制に連なる」という。
しかし少なくとも本件で問題になっている名誉毀損を前提として論ずる限り、およそ見当はずれの見解だといわねばならない。すなわち言論の自由にも限界があり、他人の名誉を毀損する自由は保障されない。現にわが国でも名誉毀損は民法上不法行為として損害賠償の対象とされ、刑法上は名誉毀損罪として刑罰の対象とされている。さらにはフエア・コメントの法理が承認されており、名誉毀損行為であっても、その内容が公共の利益にかかわり、その目的がもっぱら公益を図る目的でなされた言論は、真実であることが証明され、あるいは真実であると信ずるにつき相当の理由があるときは、適法な言論として是認されるのである。とすれば幾代教授の見解は、真実ではないことを知りつつ、あるいは真実であると信ずべき相当の根拠もないのになされた言論を、言論の自由の名のもとに擁護しようとしていることになる。このような言論は、言論の自由の外にあるのにである。右に述べたように真実であると信ずるにつき相当の理由があれば、これを表現することができるのであるから、言論の自由を萎縮させることにはならない。真実でないことを知りつつ、あるいは真実であるかどうかを全く意に介しないような無責任な言論、すなわち違法な言論が萎縮させられるというのであれば、それは結構な話ではないか。幾代教授は、言論の自由は、「言いたくないことは言わない自由」をも保障しているというが、反論文は謝罪広告とは違い、当の新聞社や個人に対し、その意に反することを記載することを強制するものではない。幾代教授は、ここで編集権の問題を持ち出している。たしかに編集権は、一般的に言えば、言論の自由に含まれる。しかし本件の場合のように、本件評論が名誉毀損に当り、本件評論を掲載した編集者が共同不法行為となっているような場合には、話は別である。言論の自由は、右のような違法な編集を擁護するものではない。
また幾代教授は、「反論権が法認されると、なによりもまず、新聞紙面の量に対する圧迫という経済的圧迫の形で、きわめて強力な力が新聞のうえにのしかかってくる」というが、それでは、現代のような強大な影響力を持つマスコミによって、名誉を侵害された弱者たる一市民はどのようにして救済されるのであろうか。まさか長い者にはまかれろといって、泣き寝入りせよというのではあるまい。
概して幾代教授の見解は、マスコミの利益の方にだけ注意を向けていて、被害者の側の利益を無視しているという感を禁じえない。この意味で同教授の見解は視野狭小で一面的にして偏頗な見解だといわざるをえない。
幾代教授が「第二」としてあげている理由は、噴飯ものといわざるをえない。その理由はこうである。「反論権は、種々の政治的・社会的な立場の人々にとって両刃の剣として機能するであろう」。同教授は、反論権は、野党や労組だけに与えられるものではなく、政府、与党、大企業にて与えられるといいたいのである。しかしそれは当たりまえのことである。反論権は、利害が対立する者の双方に公平に開かれたものなのであり、その両者の発言を掲載することによって、読者の知る権利をより豊かに充足することになるのである。
こうした批判を意識してか、幾代教授も、その後、次のように説を改めている。
「なお、新聞・雑誌等による名誉毀損に対する特定的救済方法の一つとして、フランスなど若干の立法例において認められる反論権(反駁権・応答権)がある。これは、新聞記事等で攻撃を受けた者(個人たると団体たるとを問わない)が、その執筆する反駁文(原文記事と同じ長さなど、一定範囲の量のもの)を、当該の新聞等に、原文記事と少なくとも同一の態様で(同一場所、同一活字など)掲載するよう要求しうる権利、をいう。このような方法は、わが民法七二三条の名誉回復処分として、裁判所はこれを被告に命じうるか。原文記事が名誉毀損として有責とされる場合で、同条に関する他の要件をみたすときは、このような方法も、同条にいう名誉回復処分としての適格性を有するかとも思われる。」(注一一)
右に続いて幾代教授は、「ただ、前記の立法例で認められる反論権においては反駁文の内容・字句は原則的に被害者(反駁者)の自由とされるという点が、七二三条の解釈としては問題となろう。」と述べ、その注(9)のなかで次のように述べている。
「(9)七二三条によって謝罪広告を命ずる場合には(謝罪広告という形態それ自体の問題性を別にすれば)、必ずしも原告が求めるとおり文章で認容するか、全面的に請求を棄却するかではなくて、同条にいう名誉を回復するに適当―つまり必要にして充分―と裁判所が思料する文章にして(もちろん原告請求の範囲内で)命ずることも行なわれており、それは妥当だと考える。もし反駁文掲載が、原告の書いたままを掲載せよと命ずるのであれば、問題があろう(たとえば、反駁文の内容が逆に被告その他の者に対する名誉毀損なるおそれがある場合。また、被告新聞社等にとっては、ある表現活動を強制されることだという点が考慮されねばならない)。」(注一二)
しかし、幾代教授が問題だとしている点は、同教授の杞憂にすぎない。幾代教授が参考としているフランスの場合には、さきに述べたように、反論文の内容が他の者に対する名誉毀損に当るなど適当でない場合は、反論権が制限される。わが国の民法七二三条の適用においても、右のような反論文の内容が適当なものでない場合には、裁判所は「適当ナル処分」に当らないものとして、原告の反論文掲載請求を棄却すればよいのであり、それによって幾代教授が問題としている点は、容易に解決される。
② 樋口陽一教授の見解(<書証番号略>)への批判
樋口教授は、反論権に対する消極的見解にくみする理由を、次のようにあげている。
「………かりに反論権を制度化した場合に想定される状況をも、同時に心配しておかなければ、片手おちであろう。つまり、後難をおそれてものを言わなくなる新聞、とりわけ、批判をより忌避したがる立場にある政権党への批判をはばかるようになる新聞、『新聞倫理綱領』によって『自由規制』を急ぐようになる新聞、そして何よりも、裁判所の後見におかれる言論の自由、といったものへの危惧である。」
しかしこれは、現実から遊離した根拠のない杞憂にすぎない。名誉毀損の場合に限っていえば、さきにも述べたように、フエア・コメントの法理が存在するという条件のもとでは、新聞が後難をおそれてものを言わなくなったり、政権党への批判をはばかるようになるということはありえない。西欧一三ヶ国やアメリカのいくつかの州で、長きに亘ってこの制度を設けているにもかかわらず、しかもこれらのケースでは名誉毀損の成否を問わず反論権を認めているにもかかわらず、このような弊害を生じたということは指摘されていない。さきにも述べたように、逆にいまや国際的に反論権を広げてゆく趨勢にあるのである。すなわち右のような批判は、すでに過去のものとなっているのである。
マルチテイン・レツフラー教授は、次のように述べている。
「今日ではもう廃れたが、かつてはとりわけスイスと大ブリテンで主張されていた、出版業に反論を掲載する法的義務を課すると出版の自由を侵害することになるという意見がある。反論権を認容したところで、出版の自由を侵害するわけではない。例えば出版会社に対して責任ある編集人を任命する法的義務とか奥付きをつける法的義務とかを課するように。
現代の正しく理解された見解では、情報の自由に対する基本的権利は、マスメディアだけの権利ではなく公衆にも帰属する権利である。だが、公衆がより上質の情報を得るにはふつう論争の場で両当事者に発言の機会が与えられる必要がある。マルコ氏が反論権をまさに『出版の自由の帰結』と呼んでいるがそれは正しい。」(注一三)
このように、今日では、反論権を保障することこそが言論の自由を活性化し、国民の知る権利をより豊かに充足すると考えられているのである。
③ 樋口陽一ほか「注解日本国憲法上巻」の見解(<書証番号略>)への批判
「注解日本国憲法上巻」は、謝罪広告の強制は違憲であり、適当な解決方法といいうるかは疑問だとし、「それにかわるものとして注目されているのは、新聞紙上等への反論文の掲載である。『言論には言論で』という観点からすれば、言論による名誉・プライバシー侵害に対する救済手段として、反論文の掲載を認めることは、十分検討に値する」と述べており、名誉毀損に対する救済手段として、反論文の掲載という手段を肯定している。この点では、さきにあげた樋口陽一教授の見解と異なっている。そこでは、樋口教授が<書証番号略>で述べている反論権を制度化した場合の弊害なるものは、その要件の態様の定め方如何による、というように相対化されている。
そして「注解日本国憲法上巻」は、その意味で反論文の掲載を民法七二三条の『適当ナル処分』に含ませることは疑問というべく、新たなる立法措置によるべきだとしている。
しかしそうだとすると、すでに謝罪広告は問題であるとして除外し、反論文の掲載も同条の「適当ナル処分」から除外するわけであるから、結局、民法七二三条に定める「適当ナル処分」は完全に内容空疎なものとなる。救済手段として残るのは、金銭賠償だけだということになり、同条の「損害賠償ニ代ヘ又ハ損害賠償ト共ニ名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命スルコトヲ得」との規定は、全く意味のない規定ということになろう。
思うに、民法七二三条は、名誉回復手段として、どのような手段が必要かつ有効であるかについて裁判所の裁量に任せているわけであるから、反論文の掲載が名誉回復手段として必要でもあり、有効でもあり、しかも別段弊害を生ずることもないと裁判所が判断したときは、裁判所は反論文の掲載を命ずるべきである。反論文は諸外国においても多くの国で制度化され、永年にわたって運用されてきた実績があり、それがわが国でも広く紹介され、わが国自体のマスコミ界の慣行ともなっているのであるから、この方法を民法七二三条の「適当ナル処分」から排除する根拠はない。反論文の分量、活字の大きさなどの具体的な問題についても、諸外国の法制やわが国マスコミ界の慣行を参考としつつ、裁判所がきめればよいことである。諸外国の法制をみると、反論文の掲載は、加害者が攻撃を加えたと同じメディアであること、字数は少なくとも加害文章と同一であること、同じ大きさの活字によること、同じ個所に掲載することとするのが、おおむね妥当な線であると考えられる。これらのことは謝罪広告文の掲載について、裁判所が行ってきたことと似たようなものである。
④ 伊藤正己氏の見解(<書証番号略>)への批判
伊藤正己氏は、反論権について次のように述べている。
「この権利(反論権を指す。引用者注)を具体化させるためには法制度の確立が必要であり、それは、マス・メディアの言論の自由を国家が規制する道を開くことになり、危険である。……たとえば、反論権を裁判所という公権力の支援を得て獲得することも、マス・メディアの自由を狭めることになり疑問である。」
しかしながら、反論権を認めると、言論の自由を国家が規制する道を開くというのは、およそ見当違いの見解である。このような見解は、反論権の本質、意義、現実に果たす機能に対して、全く盲目的な見解であるといわねばならない。他人から非難・攻撃を受けた者、あるいは誤った報道がなされた者に、しかも自らは反論のためのメディアをもたない弱者たる市民に、それに対する反駁や訂正の機会を保障することは、言論の自由に対する国家の規制とは、およそかけ離れたものである。
伊藤氏は、また、「反論権を裁判所という公権力の支援を得て獲得することも……疑問である」というが、欧米で制度化された反論権は、反論権を行使するために訴訟を起こさなければならないというものではなく、その手続きは簡易・迅速になされるものとなっている。たとえばフランスの場合には、「反論は、新聞が日刊紙であれば、受理後遅くとも三日以内に掲載されなくてはならず、発行物が日刊でなければ、受理の翌々日にひき続く号のなかで、掲載されるものとする。」(注一四)と定められている。そして新聞が掲載しなかった場合に、初めてその掲載を求めて裁判所に出訴することになっている(注一五)。
より一般的にいえば、権利を侵害された場合には、権利を実現するため訴訟を提起することは、どのような権利の場合にもあり得ることであり、敢えて異とするに足りない。
しかも伊藤氏は、別の論文(<書証番号略>「放送へのアクセスと現行法」『放送制度―その現状と課題』八一頁以下)では、被告の援用する<書証番号略>とは逆の見解を述べている。
すなわち伊藤氏は、<書証番号略>のなかでは、民法七二三条の解釈として、反論権を認めることができる点を、次のように述べている。
「一般的な問題として、民法第七二三条による原状回復処分の解釈問題がある。周知のように同条による処分として古くから判例の認める手段は、ほとんど新聞雑誌への謝罪広告の掲載である。その手段は、若干の憲法上の疑義はあったが、最高裁の合憲判決とともに、ほぼ定着した救済手段となっている。したがって問題は、民法第七二三条は抽象的に名誉回復のための適当な手段としているにとどまるから、このような謝罪広告のほか、反論権という新たな手段をも含みうるのではないかという点に帰着する。
実質的にみて、陳謝や謝罪という倫理的要素を含み、人の良心や信条にかかわることの表現を公権力によって強制することは、かりに合憲であるとしても、適切な処分といいがたいであろうし、被害者にとっても形式的で、真の意思を伴わない謝罪広告よりも、自らの主張を表明しうる反論の掲載請求権が望ましいと考えられる。このようにみるときは、同条の解釈としても、反論の掲載をもって名誉を回復する適当でいっそう効果的な処分と解してよいのではあるまいか。もとより、その反論文の内容について一定の制限がおかれることは、フランス法の例をみても当然である(この制限についてはわが法制上は裁判所が判断してそれを付することになろう。たとえば反論文の字数など)がその救済自体を否定する必要はないように思われる。」(注一六)
「この表現の自由、とくに伝統的な新聞編集の自由とのかかわりあいは重要な問題ではあるが、私見によれば、公共性をもつマス・メディアによる名誉毀損について、これを高額の損害賠償やさらに刑事罰によって制裁を加えることが、むしろ表現の自由を脅かすおそれが大きく、また謝罪広告も適当とはいえず、このようにして従来の名誉毀損の救済から解放されて自由に報道論評しあうところに国民の知る権利に奉仕するマス・メディアの自由が保障されるとともに、もし名誉毀損が生じたときには、被害者の自由な反論によって名誉を回復せしめる方策をとることが、現代社会において表現の自由と名誉権を適性に均衡せしめることになると思われる。以上のようにして、わが法制上、名誉毀損に対する反論というアクセスの一つの面はそれを認めることが可能であると解している。」(注一七)
⑤ マイアミ・ヘラルド事件に関するアメリカ連邦最高裁判決(<書証番号略>)への批判
右の判決の、政府による反論文を掲載せよという強制は、反論を招くような厄介な記事を書かないようにする傾向を生み、編集者の自由を阻害する効果を有するから、表現の自由に違反するという見解が誤りであることは、すでに述べたところで明らかであろう。
ここではさらに奥平康弘教授のこの判決に対する批判をつけ加えておこう。
「この判決は名誉毀損にわたる場合をのぞき新聞に反論文掲載義務を課することをいっさい違憲としている趣旨のものだと解することは、ゆきすぎたとおもう。いま紹介したフロリダ州法の定める特別な形式の反論権は、憲法上許されないと判示したにすぎないと理解したい。というのは、先述のようにおなじ最高裁は放送領域において、公平の原則を宣明し、反論権を承認しているのであって、放送と新聞との二つの媒体がまったく本質を異にすると立論できない以上、両者の間にはおなじような法原理の架橋がなされねばならないからである。いまのところ最高裁は、新聞界における市場支配の構造の特殊性(独占的私的利益の貫徹)と新聞の公共性(国民の機関的な性格)との矛盾を十分に認識していないきらいがある。もし最高裁が新聞における反論権に消極的であるとすれば、その主たる原因は、法理論のレベルよりは、より多く新聞に関する事実認識のあり方にあるようにおもえる。」(注一八)
「反論権否定論者が好んで依拠するアメリカのマイアミ・ヘラルド事件の判決では、政府による反論文の掲載強制が違憲だと判示したさい、その理由の一つにつぎのことをあげている。反論文掲載強制により、新聞紙面の他のスペースをやりくりしなければならなくなり、いきおい紙面全体にわたり記事の大きさ・内容・取扱いに制限をうけることになる。このような制限は紙面に対する直接的な制限と同様に、新聞の自由の侵害といわねばならない、と。
この理由づけが説得力あるものかどうかはしばらくおくとしよう。しかし、これが一般論としてどんなに正当であろうとも、意見広告に触発されて出てくる反論文掲載請求との関係では妥当性を欠くものであるのは、だれの目にも明らかであろう。新聞社は、意見広告の出稿者に対しては喜んでスペースを提供しておきながら(つまり広告にスペースを割愛することによって、本文記事の大きさ・内容・取扱い等について自発的に制限を行使しておきながら、)他方こんどはこの意見広告に対する反論文のスペース(それは当初の意見広告のそれにはほぼ相当するであろう)を割かねばならない段においては、突如としてスペースのやりくりの困難をもち出したり、新聞の自由を侵害することになると騒ぎ立てたりするのは、まことに首尾一貫せず、きわめて身勝手なことにちがいないからである。」(注一九)
右のなかで奥平教授が、アメリカ連邦最高裁判決が放送については反論権を認めたといっているのは、次の判決を指している。
「反論権の主張がまず最もきれいに貫徹しえたのは、放送の領域においてであった。すなわちアメリカ合衆国の最高裁は、一九六九年、ある不正確な事実にもとづく放送により中傷をうけた市民に対して、放送事業者は反論放送をおこなわしめる義務がある、と判示した。反論放送を強制されることは、放送事業者の『放送の自由』を侵害するのではないかという議論に対して、アメリカの最高裁は、もっとも大事なことは放送事業者の自由なのではなくて、放送媒体に接する国民の自由なのだとのべ、反論権は国民の知る権利との関係でも重要性をもつ、と指摘した。」(注二〇)
(2) 多数説としての積極説
まず奥平教授は、民法七二三条の「適当ナル処分」のなかには、反論文の掲載が含まれるとし、反論文の掲載こそがもっともすぐれた救済手段であるとして、次のように説いている。
「謝罪広告については、ふつう法律学者が問題にしないもう一つの側面を、わたくしとしては指摘したい。それは、言論の自由の観点から出てくる問題である。ある記事や意見は、それを発表するについて、発表する側にはそれなりの理屈があるのが、通常である。裁判の結果、たとえそれが名誉毀損に該当すると判定された場合でも、なお、当初の理屈は完全に消えてしまうとはかぎらない。そうであるのに被告が敗訴したことにともない謝罪広告で無理やり論議を打ち切りにさせてしまうのは、発表者の良心をきずつけるだけではなくて、名誉を毀損された側でさえも、それで十分に名誉が挽回された気にもならないかもしれないのである。さらに、両当事者のほかに、読者や視聴者も、当該事項(論議)に関心をもっている可能性がある。そうだとすれば、謝罪広告という生半可な消極策で一方的にケリをつけたことにしてしまうのは、言論の場を封じてしまう結果になるといえよう。これは、言論の場を確保し、言論の自由を生かす方法とはいえないのである。
ではどうしたらいいかといえば、謝罪広告などという形式にとどまる制度の代わりに、名誉をきずつけられた者に、反論し論争する機会を与えたらいいのである。そうすることによって、だれの良心もきずつけられないばかりでなく、両当事者のそれぞれの立場が明らかになることによって、第三者たる読者や視聴者たる公衆もまた、大いに啓発されるにちがいない。
わたくしたちは、名誉毀損があれば、損害賠償責任が生ずるという民法のパターンに慣れ親しんできたから、この既存の救済方法を絶対視する傾向がある。けれどもここであえて、先に謝罪広告についてのべたとおなじような批判が損害賠償についてもある程度いえるということを、指摘しておきたい。というのは、損害賠償という制度も、言論の自由を積極的に生かして、言論を活発にする視点が全く欠落している点では、謝罪広告と同様であるということである。損害賠償は、被害者の請求に応じて、加害者をこらしめるための手段であり、加害者が物理的な損害を与えたような典型的な不法行為の場合には(例えば、公害を発生させた場合を考えよ)、問題なく正当な手段である。損害を与えた者は、文句なく鎮圧されねばならない。けれども言論によって、あるひとの権利を侵害したかどうか問題になる場合、もとめうる救済手段が、消極的な鎮圧策たる損害賠償請求しかないということは正当なのかどうか、疑問の余地がある。『言論には言論を』という解決方法―積極的な救済手段―のほうが、損害賠償よりもはるかに適切だという場合があるようにわたくしたちにはおもえるのである。少なくとも、ある種の言論『被害者』は、損害賠償をもとめるよりは、自分に反論する機会を与えよ、と考えるにちがいない。そしてまた『言論には言論を』の方式が第三者たる公衆にとっても、ある種の言論を一方的にこらしめ消去させてしまう損害賠償よりも、望ましい場合があることは、先にのべたとおりである。さらに、いうまでもないことだが、一の言論に対して反論の機会を保障すること―すなわち『言論には言論を』の方式をとること―は、けっして第一の言論を一方的に鎮圧するものではないことに注意されたい。損害賠償方式が、そのことのうちに多かれ少なかれ言論抑圧的な契機をふくんでいるのと対比していえば、反論権方式は言論の自由の観点において明確に優位に立つ。
以上のべたいっさいのことにもかかわらず、『現行法には反論権の規定はないし、裁判所もこの方式をいまだ認めたことがない』という立場を固執して、損害賠償か謝罪広告のいずれかを選択するほかないのだと結論しなければならないのだろうか。そうではなくて、先に引用した民法七二三条でいわゆる『名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分』には、謝罪広告以外に、反論する機会の保障がふくまれていると解するほうが、はるかに合理的だといわねばならない。『適当ナル処分』の一つに反論権を組みいれることは、法解釈上全く容易なことである。従来の判例が、この方式を開発しなかったのは、もっぱら法律家たちの怠慢―ことがらを、もっぱら私法的な紛争の解決の次元でとらえ、ここに言論の自由という憲法的な価値がかかわっているという点の認識を欠いていたこと―に帰せられるべきである。」(注二一)
また堀部政男教授は、次のように述べている。
「また、反論権の法的根拠として、民法第七二三条の『他人ノ名誉ヲ毀損シタル者ニ対シテハ裁判所ハ被害者ノ請求ニ因リ損害賠償ニ代ヘ又ハ損害賠償ト共ニ名誉ヲ回復スルニ適当ナル処分ヲ命スルコトヲ得』という規定をあげることができる。名誉毀損の場合に、裁判所は、『適当ナル処分』として謝罪広告の掲載などを命じてきたが、この『適当ナル処分』にはアクセスの一内容である反論の掲載・放送を命じることも含まれていると解せられる。
従来、『適当ナル処分』として、わが国では、謝罪広告の掲載が命じられてきた。この謝罪広告に対しては、最高裁判所の合憲判決が出ているものの、『良心の自由』(憲法第一九条)に反するとする違憲論も根強く存在している。そのこともあって、謝罪広告よりも反論文・反論広告の掲載を命じるほうが適切であるから、『適当ナル処分』を根拠に反論権を主張できるという議論が出てきた。これに対し、マス・メディアの言論の自由の観点から否定説も主張されるようになった。しかし、このような否定論に対しては法学界では批判が強く、肯定論が多数説になりつつあるように思われる。
しかも、名誉毀損に対する損害賠償額は、今後、増加の一途をたどるであろう。アメリカでは、あまりにも多額の損害賠償(しばしば引用したニューヨーク・タイムズ社対サリヴァン事件では、アラバマ州最高裁判所は、五〇万ドル(=当時、一億八千万円)の損害賠償を命じた)が命じられると、メディア自体が破産し、言論の自由の基盤が失われるという問題が生じている。そのことを考えると、名誉回復の方法として、損害賠償よりも、反論権を認めるほうが、言論の自由の実質的保障には役立つといえよう。
したがって、アクセス権の一内容としての反論権は、民法第七二三条に一つの根拠を認めることができるといえよう。」(注二二)
右以外にも、積極説としては、次のような論文がある。
(1) 五十嵐清 「サンケイ新聞意見広告事件」(『昭和四九年度重要判例解説』七九頁)
(2) 清水英夫 「意見広告事件の法的・社会的問題点」(『法学セミナー一九七四年七月号』二〇頁)
(3) 塚本重頼 「アメリカ法における名誉毀損の特殊な救済方法」(兼子博士還暦記念『裁判法の諸問題』下六〇〇頁)
以上で明らかであるが、堀部教授が述べているように、積極説の方が学界の多数説になりつつあるのである。
(3) 判例
次に判例についてみると、これまで反論文の掲載ということが裁判官や当事者の念頭になかったためにその事例に乏しく、これからの課題であるといえよう。これまでに反論権が当事者から主張されたケースは、サンケイ新聞意見広告事件だけである。この事件の昭和五二年七月一三日の東京地裁判決は、民法七二三条の「適当ナル処分」の一つとして反論文掲載請求権を認めている。
なお、昭和六一年六月一一日の北方ジャーナル事件に関する最高裁大法廷判決(注二三)の伊藤正巳裁判官の補足意見は、名誉毀損の「事後の救済手段として、現在認められるよりもいっそう有効適切なものを考える必要がある」と述べ、谷口正孝裁判官の意見は、次のように述べている。
「このような「自己検問」を防止し、公的問題に関する討論や意思決定を可能にするためには、真実に反した言論をも許容することが必要となるのである。そして、学説も指摘するように、言論の内容が真実に反するものであり、意見の表明がこのような真実に反する事実に基づくものであっても、その提示と自由な討論は、かえってそれと矛盾する意見にその再考と再吟味を強い、その意見が支持されるべき理由についてのより深い意見形成とその意味のより十分な認識とをもたらすであろう。このような観点に立てば、誤った言論にも、自由な討論に有益なものとして積極的に是認しうる面があり、真実に反する言論にも、それを保護し、それを表現させる自由を保障する必要性・有益性のあることを肯定しなければならない。公的問題に関する雑誌記事等の事前差止めの要件を考えるについては、先ず以上のことを念頭においてかからなければならない。(誤った言論に対する適切な救済方法はモア・スピーチなのである。)」(傍線引用者) これらの補足意見ないしは意見も、反論権を示唆したもの、あるいは反論権を支持することにつながる意味をもつものと解することができよう。
(4) マスコミ界の慣行
新聞や雑誌の記事が名誉毀損に当る場合や誤っている場合に、訂正、お詫あるいは反論文の掲載を行うことは、マスコミ界の常識であり、慣行となっている。このことは証人筑紫哲也の証人調書二二丁、二三丁、二六丁、二八ないし三二丁、三五丁、<書証番号略>をみれば明白である。被告堤自身も文春の編集長として朝日新聞に反論文を掲載してもらっている(同本人調書四五丁、<書証番号略>)。同被告も、反論文の掲載は、ルールじゃないといいながらも、そのような例が多くあることを認めている(同本人調書四六丁)。
(5) 結び
以上のようにみてくると、名誉毀損の救済方法として反論文を掲載することは、民法七二三条にいう「名誉ヲ回復スルニ適当ナル措置」(傍点引用者)ということができる。しかもそれは、言論の自由という憲法的価値と個人の人格権の擁護とを兼ねそなえた最もすぐれた救済措置であるといえる。
<注省略>
三 著作権法一一五条と反論文の掲載
著作権法三二条一項は、「公表された著作物は、引用して利用することができる。
この場合において、その引用は、公正な慣行に合致するものであり、かつ、報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲内で行なわれるものでなければならない。」と定めている。歪曲ないし改ざんした引用は、同条にいう「公正な慣行に合致」しないものである点で同条に違反するといえるが、それだけに止まらず同法二〇条一項の同一性保持権を害するものであって、著作者人格権を侵害するものである。(注一)
また、同法一一三条三項は、「著作者の名誉又は声望を害する方法によりその著作物を利用する行為は、その著作者人格権を侵害する行為とみなす。」と定めている。
同法一一五条は、これらの行為によって著作者人格権を侵害された著作者は、「損害の賠償に代えて、又は損害の賠償とともに、著作者であることを確保し、又は訂正その他著作者の名声若しくは声望を回復するために適当な措置を請求することができる。」と定めている。同条は、適当な措置として「訂正」を例にあげているが、これはあくまでも例示であって、それ以外に適当な措置があり、それを原告が請求した場合には、裁判所はその措置を被告に命じなければならない。
そのような措置として、著作者人格権が新聞、雑誌などの定期刊行物のなかの記事・論評などによって侵害された場合には、同一メディアに反論文を掲載させるという方法が考えられる。その方が、訂正文よりも、より歪曲をつくした説明を行うことができ、著作者の名声の回復をより効果的に行える場合が多いであろう。この場合には、裁判所は、被告(本件の場合には文藝春秋社)に対して、反論文の掲載を命じなければならない。
(注一) 山本桂一『著作権法』五七頁は、著作文の改ざん変更は、著作者人格権の一つである「完全性確保請求権」(同一性保持権)を害するとしているが、改ざん的引用についても同一のことがいえなければならない。
四 本件における反論文掲載の必要性
前項で述べたとおり反論文の掲載は、名誉毀損、著作者人格権の侵害があった場合の最もすぐれた救済措置であり、多くの学説が認めるところである。以下においては、このことを前提に本件において反論文の掲載が必要な所以について述べることとする。
1 本件の救済措置としては反論文の掲載が最も適していること
既に述べたように原告はこれまで事実に基本をおいたルポルタージュでジャーナリストとして社会的に高い信用、評価を得て来た。このことは、一九六九年に原告がボーン賞を受賞し、その受賞理由として、「取材対象と徹底的に取り組むことにより多くの隠れた事実を明るみに出して国際情勢の判断に役立つ新鮮な資料を豊富に提供した努力、とりわけ南北ベトナム踏破報告シリーズが高く評価されたためである」(一九六九年六月九日付け朝日新聞)とされたことからも明らかである。また、右受賞理由からうかがい得るように原告は、とりわけベトナムについての報道は高く評価されていたのである。
このようなジャーナリストとしての高い信用は一朝一夕にできるものでなく、日々の報道、報告等をジャーナリストとしての良心に従って厳密に行ってきたことの積み重ねにより勝ち得たものである。本件評論は、原告がこれまでに得て来たジャーナリストとしての社会的信用を一朝にして破壊しようとするものであり、原告の社会的信用を害すること著しいと言わねばならない。
被告殿岡は、本件評論において原告の本件著作物の一部を一方的に取り上げ、原告が発表モノとして記載したものを原告の見解としたうえ、原告に非難、中傷を加えているのである。
原告自身、文筆を業としている者であり、このような場合『言論には言論を』という解決方法、具体的には原告に反論の機会を与えることが、原告のみならず、第三者たる公衆にとっても最も望ましい救済方法と解されるのである。
また、反論権は現代出版法の不可欠な構成要素になっているのであり、特に定期出版物においては反論文の掲載が被害回復のため最も効果的である。また、反論文の掲載方法も出版物のスペースの一部を提供することにより、容易に行うことができるのである。本件において月刊誌に本件評論が掲載されたことにより、原告の名誉が侵害され、また著作者人格権の侵害を受けたのである。月刊誌は一定の固定の読者層をかかえているのが出版業界の常識である。このことからすれば、原告の社会的信用回復のためには、本件評論が掲載された同一雑誌である月刊誌『諸君!』誌上に反論文が掲載される以外、本件評論を読んだ読者の誤解等を解く方法がないと言え、反論文の掲載は唯一の救済方法とさえ、いえるのである。
2 被告らの手段、内容の悪質さ
被告殿岡が本件評論で行ったことは、原告が最も高い社会的信用を受けているベトナムに関する記述について、原告がいわゆる発表モノとして報告した内容を原告の見解であるとすり替え、原告を誹謗、中傷しているのである。事実関係を捏造した上で、誹謗、中傷するのは名誉毀損行為として最も悪質と言わなければならない。このようなことに対する救済措置が十分なされないようになればジャーナリズムは死滅してしまう危険性を有している。ナチズムの嵐が吹き荒れた時「嘘も百回いえば本当になる」と言われたことがあったが、本件のようなことがそのまま通るようなことがあれば、ナチズムのときと同様の危険性が生じかねないといわざるを得ないのである。本件評論で被告殿岡が原告を誹謗、中傷した箇所について二、三例を上げれば「この事件について、本多記者は『焼身自殺などということは全く無縁の代物』『堕落と退廃の結果』であるといっている」(既に、第三章第一で明らかにしたように原告は本件著作物のなかでそのようなことは全く述べていない)。
「しかし何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないまま、断定して書いていることである。」
「しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムへの抗議は評価しないというなら、また取材の自由のないところでは確かめようがないから何でも書くことが出来るというのであれば、これは報道記者としての堕落である。」
「誤りは人の常と言っても、誤るにも誤りかたがあるというもので十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたということでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」
ジャーナリストに対し、その者の見解でないことをその者の見解とし、「誤りに誤り方がある」「報道記者としての堕落」「筆を折るべきである」というのは最大の侮辱である。
右のように書かれた本件評論のみを読んだ読者は、本件評論のみで原告のことを判断することになるのである。そのことにより、原告がジャーナリストとして被る損害は到底金銭では償えないことは明らかである。また、右誹謗、中傷の方法、内容とも極めて悪質である。被告らの原告に対する攻撃は本件以前も執拗になされており、このことによっても原告は社会的信用を著しく侵害されてきた。このような場合の救済方法は、反論文の掲載を認めることにより、被害者である原告に十分な被害回復措置を講ずる必要性が存する。
3 自己のマスメディアを自由に使用することが出来る者により、名誉を侵害された者の救済措置として必要であること
被告文藝春秋は、本件評論で原告を誹謗中傷した後、さらに一九九〇年一月に同一雑誌で、本件訴訟の争点となっている録音テープの問題を取り上げ、一方的に被告らの立場を正当化しようとする評論を掲載してる。右月刊誌『諸君!』一月号で取り上げられた内容は、実質上本件訴訟の関係者、さらに言えば、本件訴訟の原告と原告代理人及び裁判官に向けたものといえる内容である。このことは巨大マスメディアを保有するものが、一方的に読者に情報を提供し、自ら都合のよい状況を作り出すことができることを意味しており、このようなマスメディアの側からの世論に対する一方的な影響を阻止しうるようにするためには、被害者の側から直ちに反論権を行使して世間という対等の法廷で発言する権利を確保する必要が存するのであり、本件はこのことを明らかにしたものと言え、反論文の掲載がこの点からも必要と解されるのである。
なお、被告堤は、原告の反論文掲載請求に対し、本件評論掲載後数年経過していることを重要な根拠として反論文掲載を拒否し、本件訴訟においても、被告らは時間の経過と原告が他の雑誌に本件評論の問題点を指摘する文章を掲載したことをとらえて、反論文の掲載は必要なくなったと主張した。
ところが、被告らは、本件評論が掲載されてから約九年経過したのちになって、本件評論が掲載されたと同一雑誌で、同一人によって自らの立場を正当化するための評論を一方的に掲載した。
このことは、時間の経過が反論文を拒否する理由にならないことを自ら証明したといわなければならない。
4 ジャーナリズム界の慣行
既に述べたように、「ジャーナリズム界での救済措置の一般的ルール」として「事実に誤りがある場合で、改竄・でっち上げなどの虚偽による意図的なもの。最も悪質な反ジャーナリズム・人権侵害」にあたるような場合、本件がまさにこの場合に当たるのであるがこのような場合は、その救済措置も侵害行為の大きさに比例して、それに見合うものでなければならないとされており、具体的には謝罪と反論文の掲載および損害金の支払いが一般的である。
なお、これまでもジャーナリズムの世界では反論文の掲載を認めた例が多数存する。その一例を上げる
① 新聞の例
ⅰ『朝日新聞』の投書例
曽野綾子が「直立不動」との言語を使用したかが問題になった例であるが、「声」欄の投書に対し、曽野綾子の反論文の掲載を認めている(<書証番号略>)。
ⅱ『サンケイ新聞』の例
本件訴訟に関連して昭和六〇年九月一九日付け『サンケイ新聞』に被告堤が執筆した記事に対し、原告の反論文の掲載が同新聞に認められている(<書証番号略>)。
ⅲ『東京新聞』の場合
山本七平に対する原告の反論が掲載された(<書証番号略>)。
② 雑誌の例
ⅰ『朝日ジャーナル』の例
『朝日ジャーナル』誌上での立花隆による田中(ロッキード)裁判批判に対し、渡辺昇一より『諸君!』誌上で『朝日ジャーナル』編集長に反論の要求がなされ、『朝日ジャーナル』誌上にその反論が掲載された(<書証番号略>)。
また、同誌上では、歌手アグネス・チャンによるアフリカのルポに対し、曽野綾子の反論を掲載している(<書証番号略>)。
5 小括
本件は引用に明らかな誤りがあり、著作権法三二条に違反し、同法二〇条の著作者人格権の侵害になる。また、原告のジャーナリストとしての名声を侵害するため、原告の著作物を利用しており、同一一三条三項にあたりこれまた著作者人格権の侵害になる。
以上述べたことからすれば、本件においては反論文の掲載が認められる必要があることは明らかである。
五 本件において掲載されるべき反論文の内容と掲載方法
本件において原告が掲載を求める反論文の内容は別紙のとおりである。原告が右のような反論文の掲載を求めるに至ったのは、原告が本件評論によりジャーナリストとしての社会的信用を著しく侵害されるとともに、本件評論掲載後今日に至るまで被告らが反論文掲載を拒否し続け、それに伴い原告の社会的信用が回復されない状況が長く続いてきたことによるのである。
なお、反論文の掲載は原記事と同じ媒体、同じ場所に載せられるべきである。なぜなら、メディアが違えば読者層・視聴者層も異なるのであり、反論文は同じ媒体に掲載されなければ、およそ反論文として何らの意味をもち得ないと解されるからである。
以上述べたことからすれば、被告文春は別紙反論文を掲載すべき義務を負うと言わざるをえない。
六 謝罪文の請求
本件評論の掲載が名誉毀損行為に当たることは既に述べたとおりである。原告の社会的信用が著しく害されたこと、被告らの行った行為の悪質さからすればその救済措置として金銭賠償のみでは不十分であり、被害回復のための適当なる措置として謝罪文の掲載が是非とも必要である。被告殿岡は本件評論を執筆した者として、被告村田は、月刊誌『諸君!』の編集長として名誉毀損にあたる本件評論を十分検討することなく掲載することにした者として、被告文春は、名誉毀損にあたる本件評論を掲載した月刊誌『諸君!』を発行した者として、各自別紙謝罪文を被告文春が発行する雑誌『諸君!』誌上に掲載する必要が存すると言わざるを得ない。
七 慰謝料の請求
ジャーナリストにとって、調査なり、検討した内容を文章にし、一般読者に届けることは、その活動の中心であり、ジャーナリストはその内容に全責任を負っている。それ故、書かれた内容が正確であることが、ジャーナリストの社会的信用の源泉である。原告は、これまでのジャーナリストとしての活動のなかで、その綿密な調査、取材を踏まえた事実の報道をすることで社会的に高い信用を得て来たことは既に述べたとおりである。このような原告に対し、被告らが原告の見解でないことを原告の見解として、原告を誹謗、中傷した上、「筆を折るべきである」等の非難することはジャーナリストである原告に対する最大の侮辱と言わなければならない。
また、本件においては、原告の謝罪文掲載要求に対し、被告文春が一旦了承したにもかかわらず、被告堤がジャーナリズムの常識に反して掲載を拒否した。そのため原告は名誉回復の機会を得られないまま、多くの歳月を費やすことになった。そのため、原告の精神的苦痛は倍加することになったのである。
なお、わが国においては慰謝料について低く考えがちであるが、民主主義国家においては表現行為にかかわる名誉は最大限尊重されなければならず、その侵害があった場合は十分な救済がされる必要があると解される。
以上の事情を考慮すれば、原告が本件評論が掲載されたことにより被った損害は金一一〇〇万円(弁護士費用の金一〇〇万円を含む)を下らないと言わなければならない。したがって、本件評論を書いた被告殿岡と同評論を掲載した当時の月刊誌『諸君!』の編集長であった被告村田及び月刊誌『諸君!』の発行をした被告文春は各連帯して金一〇〇〇万円を原告に支払わなければならない。
被告堤が月刊誌『諸君!』誌上に投稿の掲載を拒否しつづけたことにより、原告が被った損害は金一一〇〇万円(弁護士費用金一〇〇万円を含む)を下らないと言わなければならない。よって、被告堤とその使用者である被告文春は連帯して原告に金一一〇〇万円を支払わなければならない。
第六 被告らの弁解の不合理性と自己矛盾
一 被告らの弁解
被告らは「原告の本件著作物において『焼身自殺』という言葉が次のように常に否定的な文脈で用いられている」(昭和五九年一二月一八日付け被告準備書面二の2)と主張し、あるいは原告が読者を「ミスリード」している旨述べ(村田調書四〇丁表)、また報道機関の名誉毀損に関する判例を利用するなどして本件評論の正当化をはかっている。
このように被告らは種々弁解しているが、いずれも自己矛盾や常識に反しており、到底被告の弁解が成立つ余地はない。しかし右弁解は多岐にわたっているので、これまで述べたところと一部重複部分もあるが労をいとわず詳述する。
二 本件著作物は「発表モノ」として明確である。
1 本件事件に関する原告の表現方法は「発表モノ」として一貫して書かれている。
(一) すでに述べたとおり、本件事件に関する本件著作物上の紹介記事はハオ師の言葉として明確に記されている。ところが被告らは「当局によればと書いていない」(被告村田調書三七丁裏)とか「なかなかそう読まれないんじゃないかと思います」(第一六回被告殿岡調書一八丁表)と弁解し、あたかも「発表モノ」でないかのように供述する。
しかし被告ら自身、本件著作物では「形ではそうなっております。」(第一六回被告殿岡調書一八丁)ハオ師の言葉として「述べたと書かれている言葉」(被告村田調書二二丁表)であることを自認している。
したがって被告らに本件著作物が「発表モノ」として記されていることがわからないはずはないのである。
(二) 被告村田らの供述を仔細に検討すれば、本件著作物では「当局によれば」との記載がないこと(同被告調書三八丁表)、更には、真偽はわからない旨の留保を書かなくては「発表モノ」とはいえない趣旨のようである(同四一丁表)。
しかし「ハオ師の言葉として述べている」ことこそ「当局によれば」以上に正確な「発表モノ」の表示であることが自明である。
新聞など一般の「発表モノ」の表示では単に「○○によれば」となるのが普通である。本件著作物はこれらの表現と比べても、いっそう厳格に書かれているのである。本件著作物ではハオ師の言葉を引用するに際して、その前後からサンドイッチ状にしてハオ師の言葉であることを明示している。それ故、被告らもハオ師の言葉として書かれていることを否定出来なかったのである。
現に被告村田は、新聞の場合と限定しながらであるが「発表モノ」は「当局によれば」「調べによれば」という方法で書かれているだけであり、「真偽の程はわからないという留保は全くない」ことも認めている(同人調書四一丁)。
「発表モノ」の手法が新聞と書籍の場合に異ならなければならない理由や慣習は全く存在しない。被告らもその点についての弁解を全くしていないし、行なえるはずもない。被告らの右弁解が成り立つ余地のないこと明白である。
(三) 被告らはまた本件著作物ではハオ師は「警察でもない、政府でもない」から「発表モノ」ではない旨供述する(被告村田調書三八丁表、第二〇回被告堤調書二七丁表)。
しかし「発表モノ」とは、政府関係当局はもちろん、調査者や、一定の権威のある者などの「説明」や「見解」をそのまま報道する手法である。したがって、発表者は警察に限られるものではない。本件著作物の引用部分ではハオ師が解放のベトナム仏教界を代表して本件の事件の「真相」はこうだということを現場調査の結果として記者会見で説明したのをそのまま記録したものである。被告らによれば、たとえばある犯罪に関連して行なわれた弁護士会等による記者会見の説明をそのまま報道した場合にも「発表モノ」ではなくなることになる。被告らの右弁解が成り立たないことは常識に照らしても明らかである。
被告堤は、本件事件に関する一九七六年九月九日付けの『朝日新聞』の記事(<書証番号略>)が「発表モノ」であることを認めている(第二一回被告堤調書二九丁)。ところが皮肉なことに右記事は、「パリ在住のベトナム仏教徒代表」が「明らかにしたところによる」ものであって、警察発表によるものではない。
被告の供述のとおり警察発表によるものでなければ「発表モノ」にはならないとすれば、本件事件については右『朝日新聞』の記事も「発表モノ」とはなりえないのである。被告堤の供述が矛盾していることは明らかである。
2 被告らは「発表モノ」と記者の見解を故意に混同している。
(一) 被告らは、原告がハオ師の発表を掲載したこと自体に原告の「選択」があるとして、原告が本件事件を「焼身自殺事件」と判断したことの根拠にしたり(被告村田調書三〇丁表)、また被告堤は「それを取捨選択する」から原告の価値判断が入っているとする(第二〇回堤調書一六丁裏など)。
しかしすでに述べたとおり「発表モノ」として報道することに価値があるかどうかの判断と当該報道内容が正しいか否かとの判断とはレベルも異なるし、その内容も違っている。
現に被告殿岡も、聞いたままをそのまま報道する場合に、判断を留保するのが一般的であることを認めており(第一六回被告殿岡調書一七丁裏)、被告村田も両者は別の判断であることを認め(被告村田調書四二丁裏)ている。
また被告堤は、本件著作物での本件事件の著述はコメントであるとし(第二一回堤調書二四丁裏)、「コメントを要約すれば選択がある」(同二五丁表)ことを原告の「断定」の根拠にしている。
一方同被告は「断定していない形でコメントを報道するということについてもそれなりに取捨選択があること」も認めている(同丁裏)。
とすれば「コメントを要約」したからといって直ちに原告の断定があるとする被告堤の右弁解に何らの理由がないことは明白である。
(二) 被告殿岡の「アメリカ世論の崩壊」と題する評論(<書証番号略>)では、被取材者の発言のみを掲載しているが右記事の中では判断を留保する旨の記載はどこにもない。
ところが被告殿岡は右記事につき被取材者の話が真実だと「断定」したことには「なりません」と答えている(第一七回被告殿岡調書三七丁)。
とすれば、被告殿岡も本件著作物と同様の手法により「発表モノ」として、右記事を書いていることは自明である。
(三) だとすれば、被告らは「発表モノ」は著者の見解を示したものではないことを熟知していながら、ことさら「発表モノ」と原告の見解とを混同させているのである。
3 本件著作物における見出しについて
(一) 被告らは「『前章から出てくるファム・ヴァム・コー事件とはどういうことであろうか』との書き出しでこの節を始め」ることが「そこで発表されたものが事実であるというふうに(原告が)信じている」と「読者は読む」根拠の一つとする(第一六回被告殿岡調書三三丁表)。
しかしこの導入部分は単に前章からの引き続きであることを示しているだけであり、原告が本件事件の真偽に何らかの判断を加えている要素は全くない。
原告が本件事件の真偽について何らかの判断をしているか否かは、「前章から出てくる……であろうか。」に引き続く内容によるのである。被告らも認めているように、本件著作物では本件事件にかかわる記述はすべてハオ師の発言の紹介に終始しているのであって、導入部分をもって原告が本件事件の真偽を「断定」している根拠とすることは到底できない。
(二) また被告らはこの見出し中の「“焼身自殺”事件」と“”マークがあることが(焼身自殺と)「同一じゃないんだよということを言いたかったということですね」と述べている(第二一回被告堤調書一八丁表)。しかし見出し中の“”マークは「いわゆる」との意味であって、「焼身自殺」事件か否かの判断を留保している趣旨が込められているのである。
ところで被告堤は、同人が朝日新聞社に対して反論文まで要求した新聞記事の見出しは皮肉なことに「“同一”論文『文春』が掲載」と記されていた(<書証番号略>)。右見出しにつき被告堤は“”マークがあることによって同一論文を掲載したように読まれてしまう旨供述している(第二一回同人調書一八丁表)。
だとすれば、被告堤はこの“”マークの効果につき一方ではマークに付せられた言葉とは反対と読み取ることができると述べ、他方では付せられた言葉と同じ趣旨に読まれてしまうと述べており、この“”マークの趣旨につき正反対の供述をしている。
そこで原告代理人が“”マークに関する被告堤の供述の矛盾を衝いたところ、被告堤は“”マークの趣旨からは説明できず、「そのあとは『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です』と書いてありますね」と述べ、見出しのあとに続くハオ師の言葉を根拠に持ち出している(同調書三三丁表)。
このように被告堤は“”マークを根拠に原告が「断定」しているとの説明も結局出来なかったのである。
本件著作物の見出しもまた原告が「断定」したとする根拠になり得ないということは右の経過からも明らかである。
4 被告殿岡の弁解の自己矛盾
(一) 被告殿岡は、本件著作物である原告がハオ師の発表に信頼をおいて書いてあることの根拠の一つとして「愛国仏教会についてなかなか信用のおけるような団体であるかのような紹介がある」ことをあげている(第一六回被告殿岡調書八丁表)。
しかし本件著作物では逆に愛国仏教会はベトナム当局側の団体であることを明確にし、信用できる団体か否かの判断など全く加えていない。
原告代理人から愛国仏教会の紹介の仕方に問題のないことを指摘されるや、被告殿岡も結局ハオ師に「愛国仏教会副会長」の肩書きを用いたことも問題のないことを認めた(第一七回被告殿岡調書二三丁表)。
その結果「申し訳ないですけど全体としてということになりますね」と答え(同調書二五丁表)、結局被告の右弁解を事実上撤回しているのである。
(二) また被告殿岡は、本件著作物では、ハオ師の発言を紹介しただけではないかとの質問に「形ではそうなっております」と認めている。
他方、「発表モノ」として「なかなかそう読まれないんじゃないかと思います」(第一六回被告殿岡調書一八丁)と述べ、本件著作物ではベトナム当局の発表が正しいと「言っていると思います、全体に」「この記事の扱い方がそうです」(第一七回被告殿岡調書一五丁裏)と弁解している。
これは、本件著作物の文章や表現の中に「原告が判断したこと」の具体的根拠が見い出せなかったために「全体」論や扱い方という一種の印象論に逃げ込もうとしたに他ならない。
しかし、「発表モノ」であるか否かはその表現の方法によるものであって、右弁解も成り立たないことは明らかである。
(三) 更に被告殿岡は「お気に召すかどうか分かりませんが、これを全部資料のところに入れれば、私は全く文句ございません。」(第一七回被告殿岡調書二四丁表)と供述する。
被告の右弁解の根拠は、本件著作物の付録の部分は、資料的文章を収録したものであり、「発表モノ」は資料であるから、本件事件に関する記事は付録に入れておけば「私は全く文句」がないとのことのようである。
しかし、本件著作物の本論部分は多くベトナム当局側での取材を記録したものである。他方、本件著作物における付録は評論的な記事を編集したものである。
従って本件事件の記事を本論部分にあらわすことは当然であって、被告殿岡の右弁解は的外れである。
三 本件著作物の付録部分について
被告らの弁解 被告らは付録部分のいくつかの文章をとりあげた上、「この一冊の本の本質はただいま読みあげた文章に凝縮されてはいっていると思います」とし(被告村田調書四丁表)、被告殿岡もまた「『西側の宣伝された』という言葉、これはその事実と違うこと」として扱っていると供述している(第一六回被告殿岡調書一二丁表)。
この点については、すでに第三章第二の三で詳述しているとおりであって詳細はくり返さないが、要は本件著作物の付録部分はベトナムでの取材の不自由さについて正面から論じている部分である。原告がベトナム当局を美化しているというのは、被告らは原告の反語や逆説的用法をことさら無視するなど被告らの悪意による曲解として評しようがない(<書証番号略>)。
このことは被告文春を含む第三者の手による本件著作物に関する書証からも明らかである(<書証番号略>)。
四 被告らの録音テープの弁解に関する不合理と自己矛盾
被告殿岡は、マン・ジャック師との対談(一月号評論)において「これがオリジナルで、これからコピーができたということはまちがいないですね」と二つのテープの存在を確認し、「本多テープ」が「殿岡テープ」のコピーであると弁明している。
被告らはまた平成二年六月二九日付け準備書面において本件評論における原告非難の正当性を主張している。ところが右の弁解は客観的に成り立たないことがわかる。
1 「本多テープ」と「殿岡テープ」は一方が他方を編集したものでない。
鑑定書(<書証番号略>)によれば、「本多テープ」にある言葉(ctuc)が「殿岡テープ」にはなく、また「本多テープ」四頁一四行の「アンマニ……」の言葉が「殿岡テープ」にはないこと、逆に「殿岡テープ」七頁二五行にある「アンマニ……」の言葉が「本多テープ」にないことなどの事実から、一方から他方を編集したことにより作成されたものではないと判定している。
そればかりか鑑定書で指摘されたこれらの事実からすれば「殿岡テープ」と「本多テープ」が元来同じ録音テープからコピーされたものと考えることも困難であり、「本多テープ」と「殿岡テープ」は別々の録音テープから編集された可能性が極めて高いといわざるをえない。
2 「殿岡テープ」の内容は不自然である。
(一) 「殿岡テープ」には何ヶ所も中断があり、当初の読経の部分に続いては三部に分かれており、編集されていることは明白である。
(二) 「殿岡テープ」に収録されている歌の一部は歌謡曲の替え歌である。本件事件が仮に抗議の自殺事件だとすると、このテープ内容はきわめて不自然である。
(三) 被告殿岡は本件評論では、最終部分において「木魚のどっしりとした響き」や「尼僧の無心で晴れやかな合唱が加わ」っているとしている。また一月号評論においても、「女性信者の一人が」「『無名戦士を讃える歌』を歌」っていると書いている。しかし「殿岡テープ」にはそれらが存在しない。被告殿岡は「(「本多テープ」は)私のテープと聞き比べると、はるかに録音状態が悪く、途切れ途切れに入っている箇所もある」とするが、両テープを聞き比べれば、「殿岡テープ」の方がはるかに聞き取りにくく録音状態が悪いことは明白である。
本件評論や一月号評論には「『そして真理を守るため私たちは死に就きます。薬師禅院代表ティック・フエ・ヒエン。南無妙本師釈迦牟尼仏』そのあとテープには再び勤行の音声が響く」とあるが、「殿岡テープ」には「再び勤行の音声」はどうしても見出せない。
被告らの検証指示によれば「殿岡テープ」には「一〇一五歌(女性)」、「一二八四歌4」が存在することになっている。さらにまた被告のテープカウンターによれば勤行部分は七四二の長さがあり、その余りの部分は五七三の長さがあることになっている。
ところが原告のテープカウンターによれば殿岡テープの勤行部分は八〇二その余りは三九九の長さである。
勤行部分とその他との比が前者では約1.3対1、後者では約二対一の比率となっており、明らかに構成そのものが異なっている。
これらの諸事実は不可解というほかはなく、被告らの弁解が到底成り立たないことは明白である。
3 マン・ジャック師の「詐術」について
被告らはマン・ジャック師の説明を「善意の誤解に基づく誤った『説明』」と弁解する。
(一) しかしマン・ジャック師は原告に対する手紙の中で「これはいかなる編集もなされていないオリジナルテープです」と明言し(<書証番号略>)、氏名について「テープには一二人の名前はありません」「しかし一二人の名前はベトナム仏教の化導院の書類にはあります」(<書証番号略>)と説明している。これらの説明は原告が再三手紙で確認をとったことに対する返答であって、マン・ジャック師は「本多テープ」の内容を十分知ったうえで説明を加えていることは明白であり、これらのことをマン・ジャック師が誤解しているはずはない。
(二) またマン・ジャック師は原告との往復書簡に関して「本多さんから私に連絡がありました。反共の記事を書くためにテープをくれないかと手紙をよこしたんです」、原告との手紙のやりとりも「彼にテープを渡したあとは全然ありません。裁判のことが心配だったのでしょう」などと原告を非難するが、マン・ジャック師のこれらの「発言」が事実と異なることは原告の各書簡から明白である(<書証番号略>)。
4 一月号評論における被告らの自己矛盾
(一) 被告殿岡は、本件評論では「この事件においては、本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』『堕落と退廃の結果』であるといっている」として原告の判断を非難したのであった。ところが一月号評論においては、「本多記者もこの立場(ベトナム当局の立場)を支持しているとの強い印象を受けた」とか「現場取材なしに政府側の一僧侶にすぎない人物の談話を鵜呑みにするかの如き本多記者の執筆態度を非難するものであった」として、被告殿岡は本件評論中で、同人の主観的印象に基づいた原告批判を行なっているかのように書いている。
このように一月号評論と本件評論とを比較すれば被告殿岡は明らかに原告非難の趣旨を変更している。
これは本件裁判の中で被告殿岡もその誤りを認めたためこのような変更を行なったと考える他はない。
(二) さらに一月号評論では被告殿岡は「ところが、原告側は何を思ったか、別の新しい争点を提起してきた。マン・ジャック氏から私が受け取り、集団焼身自殺を殉教とする立場から本多記者を批判した証拠資料があるカセットテープの真贋論争がそれである」として、本件裁判中に原告が録音テープの「真贋論争」を持ち出したと書いている。しかし原告が当時指摘したのは被告殿岡自身の資料改ざんの可能性の問題であった。
この点一つを見ても被告殿岡は事実の歪曲を常習的に行なう人物といえる。
(三) また一月号評論は本件評論掲載後約九年経過した後になって『諸君!』誌に突然掲載されたものである。
被告堤は、原告が反論文の請求をしたのに対して「なにぶん問題にされておられる殿岡論文が二年も前のことであること」を掲載拒否理由の一つとしていたが(<書証番号略>)、この反論文掲載拒否理由もまた何らの根拠ももたないことを、右一月号評論掲載という事実によって証明したのである。
5 被告殿岡自身の執筆態度と原告非難とは相互に矛盾している
(一) 被告殿岡は、本件評論において「本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに断定して書いていることである」と原告を非難した。
(1) しかしすでに述べたように「本多テープ」「殿岡テープ」はそれぞれ編集されており、似て非なるテープなのである。
「殿岡テープ」にある歌の部分には不自然な点が多々存在し、本件評論で書かれている「木魚」の音や僧侶の合唱もない。
(2) 被告殿岡は一月号評論で「殿岡テープ」の入手経路についてマン・ジャック師からの説明を聴取して「ともかく録音をされたテープがいかにしてマン・ジャック師のもとにわたり公表されることになったかがおわかりいただけると思う」、などとしている。しかしこの一月号評論の内容から明らかなことは、被告殿岡は本件評論の執筆に際して被告殿岡は録音テープの入手経路についての調査さえ行なっていなかったということなのである。被告殿岡は録音テープの内容と本件事件との結びつきを可能な限り確かめるという初歩的調査も怠っておきながら、原告本多を現場調査さえしないで書く堕落したジャーナリストとして非難したのである。
(二) また被告殿岡は、ハオ師の発表を「いんちき臭い話」とし、原告がハオ師の話しを「荒唐無稽な話」と知りつつ、「うそに違いないとそういうふうに思いながら、ああいう文章を書いた」(第一五回被告殿岡調書一三、一四丁)と原告を非難している。
しかし、「殿岡テープ」には本件評論で被告殿岡が書いている「木魚」の音や「僧侶の無心で晴れやかな合唱」は存在しない。
また被告殿岡が一月号評論で指摘している「女性信者の一人」の「歌」などもない。
本件評論や一月号評論におけるこれらの文章は、被告殿岡が殿岡テープの内容を一部捏造して原告に非難を加えたことになるのである。(仮に第三のテープが存在しているとしたら被告殿岡は複数の録音テープがある事実を隠蔽して原告非難を行なっていることになる)
被告殿岡こそが右のように録音テープの内容を故意にねつ造して原告への非難を行なっているのである。
五 報道における名誉毀損の判例と被告らの弁解
1 被告らは、報道機関が当局の発表をそのまま記事にしたとしても、その内容が結果として虚偽であった場合には報道した者も責任を問われる場合があると言っている(例えば、被告村田調書二八丁)。
しかし、報道機関が、ある事件を報道して名誉毀損に問われることと、報道機関が「発表モノ」の内容を真実と断定しているか否かは別の次元の事柄である。
判例では、報道機関が警察発表をそのまま掲載した場合には、いわゆる客観的立場からの報道(すなわち発表があったことをそのまま伝達するもの)として発表内容に仮に誤りがあったとしても真実について相当性があるとして免責される。しかし、その限界を超え、当該報道機関が「発表モノ」として報じた人物が犯人であると推測したり、断定したりした場合にはその責任を問われているのである。
また報道機関が、独自の調査・取材報道を行なった場合には、その調査・取材内容についての相当性の判断が行なわれている(東京地判昭和三一年五月二一日、同昭和三一年七月三一日、甲府地判昭和三一年二月二日、仙台地判昭和三四年五月二一日、札幌地判昭和四五年三月一六日大阪地判昭和五五年七月一八日など)。
判例では、報道が当局の発表にとどまっている場合には相当性を認め、当局の発表内容以上に憶測を付加したり断定した場合には、報道者の見解として推定や断定部分について判断過程の責任を問われていると解することができるのである。
「発表モノ」を報道することと、「発表モノ」にもとずいて推測したり断定したりして報ずることを故意に混同して誤った主張や弁解を行なっていると言わざるをえない。
2 特に断定的事実を報道したか否かが争点となった事件(札幌地判昭和四五年三月一六日)における、同判決は「一般読者の普通の注意と読み方を基準として」次のような判断を行なった。
すなわち、右判決は「同署の調べによると」として書かれたパラグラフと、そのような限定のない記事内容とを区別したうえ、前者を除き後者の記事部分についてのみ「断定的事実を報道するものであるとの印象を与えるものと認めるのが相当である」と判断している。
右判決では「一般的読者の普通の注意と読み方」を基準として判断した結果、「同署の調べによると」などと記載された「発表モノ」は断定的報道記事とはいえないことを明確にしているのである。
3 「発表モノ」についての報道機関の責任について被告村田は「道義的責任はあると思います」として問題を「道義的責任」(同人調書二八丁裏、二九丁裏)にスリかえている。しかし、本件の争点は本件著作物中に、原告が本件事件について「断定」している部分があるか否かである。
仮に「発表モノ」の中に筆者の「判断」や「断定」があるとしたら当然右「判断」に対して法的責任が生ずることはメディアに三〇年近くもいる被告村田も十分承知しているはずである。
「道義的責任」と供述せざるをえなかったところに被告村田の弁解の根拠のなさをみることができよう。
六 反論文に関する被告堤の自己矛盾について
被告堤は反論文掲載などその救済措置を求める原告本多の要求を一切拒否し続ける一方、同被告の編集に関わる論稿に関連する『朝日新聞』の報道(<書証番号略>)に対しては、反論文の掲載を要求し、朝日新聞社宛に被告堤自身が執筆した反論文を掲載させている(<書証番号略>)。
右事件はすでに他誌が掲載使用済みの原稿と、同一論文と疑わしい論文を当時『文藝春秋』誌の編集長であった被告堤が掲載した旨の記事を出したことを報じた『朝日新聞』の報道に端を発している。右事件におる被告堤の行動は本件における原告の主張の正当性を裏付けるものであり、実に示唆に富むものである。
すなわち、右『朝日新聞』の記事は、「“同一”論文『文春』が掲載」との見出しになっているが、右記事では『文化評論』と『文藝春秋』の論文が同一であると断定しているわけではないことを被告堤も認めている(第二一回被告堤調書二八丁表)し、また、右『朝日新聞』の報道には同被告の談話さえも掲載されていた。それにもかかわらず、これら一定の注意をはらって報道された記事に対してさえ被告堤は反論文の掲載を求めていたのである。また、被告堤は、二つの論文に類似性があることは「出版界のモラルとしても、全く問題はないと考え」ているのである。
被告らは、原告の反論文掲載の請求に対し、すでに原告は、他の媒体で反論しているから、本件反論文掲載の必要はない旨主張した。月刊誌『潮』に掲載された原告の論稿(<書証番号略>)は本件反論文と視点も書き方も違うこと、また読者層が異なる媒体では損害が治癒できない旨原告は主張してきた。しかし被告堤は、自身『文藝春秋』という媒体に属しながら『朝日新聞』に反論文の掲載を求めそれを実現したのである。
右事件での被告堤の行動はまるで原告のこれまでの主張をそのままなぞっているかのようである。この事実は出版界では、被告堤も含め原告の主張することが慣行として行なわれていることを端的に示しているのである。
これに対し、本件では被告堤はいったん約束した原告の訂正文の投稿(<書証番号略>)の掲載すら拒否し、原告の反論文掲載の要求にも真面目な対応さえしていない。特に同被告は、原告が反論文の掲載を要求した段階でも本件著作物を読んでいない(第二一界被告堤調書一六丁)ことを認めている。『朝日新聞』に反論文の掲載を請求しそれを実現した被告堤の態度と、本件における対応は明らかに矛盾している。
前記『朝日新聞』に対する被告堤の態度からしても、本件の場合には反論文掲載を行なうべきことは明らかといわなければならない。
別紙被告らの主張
一 原告の主張の要点
原告の本件訴訟における主張とは、要するに、次のようなものである。
① 被告殿岡は、『諸君!』昭和五六年五月号に掲載された本件評論で、本件事件に関するハオ師の説明を、原告の直接的調査結果でありかつ原告の見解であるとして「引用」し、原告を非難した。
② しかしながら、原告は、本件著作物で、本件事件を無理心中だとするハオ師の説明を「発表モノ」として原告自身の調査結果とは明確に区別し原告の見解を交えない報道として紹介したにすぎない。
③ また、被告殿岡は、本件評論執筆に際し、信用性の低い被告殿岡所有の録音テープ(殿岡テープ)の真偽を確かめないままこれを信用し得るものとして援用し、原告を非難した。
④ 被告殿岡は、意図的に前提事実をねつ造しかつ曖昧な根拠によって、原告を誹謗したものであり、本件評論の違法性は明白である。
⑤ 被告村田は、本件評論が違法であることを知りながらこれを『諸君!』に掲載し、被告堤は、同様に『諸君!』への反論文の掲載を拒否した(*)。
⑥ 被告文春は、被告村田、同堤の使用者である。
⑦ よって、被告らは、原告に対し、民法七〇九条、七一五条、七一九条及び七二三条並びに著作権法二〇条、三二条一項、一一三条三項及び一一五条に基づき、損害賠償、謝罪文掲載及び反論文掲載の義務を負う。
*なお、原告は、当初被告堤を被告村田と取り違えていた。この問題は、後に論ずる。
二 本件訴訟の争点
1 原告の主張のうち、被告殿岡が本件評論を執筆したこと、被告村田が本件評論を『諸君!』に掲載したこと、被告堤が『諸君!』への反論文の掲載を拒否したこと、被告文春が被告村田、同堤の使用者であることについては、当事者間に争いがなく、原告の法律上の主張についても、反論権に関する部分を除くほか(*)、それ自体としては異論はない。
反論権に関する被告らの主張についてはたとえある表現が名誉毀損として不法行為を構成する場合であっても、裁判所がその救済方法として反論文の掲載を法的に強制することは、表現の自由たる編集の自由(編集権)を侵害し、かつ表現の自由に対する萎縮的効果の故に、憲法に違反すると考えるのである( は、注記する場合のほかは、強調のために付したものである。以下同じ)。
なお、言うまでもないことであるが、「反論権」と「編集者が反論を歓迎すること」(『諸君!』の場合も同様である<書証番号略>「編集だより」参照>)とを混同してはならない。後者の場合、編集の自由は完璧に保障されているが、前者の場合は、そうでないからである。
そして、我が国には「反論権」を認める法的根拠や慣習はむろん存在しない。
また、本件評論が原告を痛烈に批判したものである以上、それが原告の社会的評価すなわち名誉を低下させるものであることは否定すべくもないから、被告らとしてもこれを認めざるを得ない。
2 したがって、本件訴訟の争点は、原告の前記①の主張のうち、被告殿岡の本件評論における本件著作物の「引用」が許されないものであるか否か、ということになる。
そして、このことは、殿岡テープに関する貴裁判所平成元年六月二日付決定を是認した東京高裁平成元年七月三一日決定が判示したところでもあった。
曰く、「前示のとおり、本件訴訟の争点は、あくまで相手方殿岡が本件評論の中で抗告人の著作物を歪曲して引用したものであるか否かであり、本件評論の中で相手方殿岡がファン・ヴァン・コー事件はベトナムの現政権に対する抗議の焼身自殺であるとして抗告人の記事を批判していることが確実な根拠に基づく正当な批判かどうかではないのであるから、本件録音テープの内容が果たして真実であるかどうかは右のような本件訴訟の争点と直接関係はないのである。」(同四丁表裏*)
*右高裁決定がそのまま是認した(同三丁表)貴裁判所の決定中の判示にも次のようにあった。
「本件は、本件著作物中のファン・ヴァン・コー事件に関する記述内容が正しいのか、本件評論の該当部分の同事件に関する記述内容が正しいのかを争点とするものではなく、右評論の該当部分において被告殿岡が本件著作物の内容を歪曲して引用しているか否かが争点であり、被告らは、右引用の方法には何ら誤りがない旨を一貫して主張しているものの、右記述内容が正しいものである旨を本件の争点としているわけでないことは、本件訴訟の経過から明らかである。」(同五丁表)
高裁決定に「前示のとおり」とあったのは、右判示を指している。
然り、本件訴訟の争点は、被告殿岡が本件評論で原告の本件著作物を歪曲して引用しているか否かである。
3 そして、本件訴訟の争点は、それに尽きる。
何故なら、原告が本件訴訟で名誉毀損として主張する被告殿岡によって「摘示された事実」とは「原告は、本件著作物で、本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記述した」ということであり(*)、翻って、被告殿岡においてその真実性を立証すべき事実とは、同様に、「原告は、本件著作物で、本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記述した」ことであるから、結局、本件訴訟の争点は、「原告は、本件著作物で、本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記述した」のか否か、すなわち、被告殿岡が本件評論で原告の本件著作物を歪曲して引用しているのか否か、だけなのである(**)。
*なお、そこには、「原告は、本件著作物で、本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記述した」と被告殿岡が摘示することが何故に原告に対する名誉毀損を構成するのかという別の問題も潜んでいた。この点は、後に改めて論じよう。
**つまり、原告の主張のうち前記③の主張は、せいぜい前記①の主張を補強するだけの補助的主張であり、前記①の主張が認められない場合でも本件評論を違法たらしめるという意味での独立した主張ではない。
4 いずれにしても、本件訴訟の争点は、通常の名誉毀損事件の場合とは様相を異にし、本件事件の真相が焼身自殺であるか無理心中であるかとは一切無関係であり、被告殿岡の本件評論での原告の本件著作物の引用が許されないものであるのか否か(前記高裁決定の言葉を借りれば、「相手方(被告)殿岡が本件評論の中で抗告人(原告)の本件著作物を歪曲して引用したものであるか否か」)であることを確認しておく必要がある。
三 本件訴訟における原告の態度
1 したがって、原告と被告の主張の一体どちらが正しいのかは、本件評論と本件著作物とを読み比べるだけで判定することができる極めて容易な判断であるといわなくてはならない。
そして、その場合の判断は、「一般読者の普通の注意と読み方」を基準とすべきものであるから(最高裁第二小法廷昭和三一年七月二〇日判決・民集一〇巻八号一〇五九頁参照)、本件評論と本件著作物を証拠調べするだけで十分だったはずである。
現に、原告自身も、「このことは読者も一読すれば明らかである」(訴状五丁表)「一応のレベルの編集者であれば、この評論の虚偽性に気付くことはかんたんであり、私の本のその部分を見るだけでも直ちに判明します」(原告本人の昭和五九年九月四日付け書面二丁裏)「ことは重大であっても単純です」(同六丁裏)「これがどんなにひどい代物かは、私の原著書『ベトナムはどうなっているのか?』(朝日新聞社)を読んで、殿岡氏の“引用”(つまり「殿岡式引用」)と比べてみるだけでも明白になろう」(原告の昭和六〇年五月二八日付け準備書面に添付された反論文五丁裏)などと主張した。
2 しかし、本件訴訟で、すみやかな結審を求めたのは、原告ではなく、被告らだった。
原告は、表現の自由の意味に始まり反論権の必要性に至る道学者的主張を繰り返し展開し、本件を正しく判断するためには多数の証人の取調べが必要である旨これまた繰り返し主張し、証拠調べを原告本人尋問から始める旨貴裁判所が決定されるや忌避の申立を行ない、多数の証人の尋問が不可能となると(本件で取調べられた証人は筑紫哲也証人だけである。)。一転して殿岡テープの提出を要求し、前記高裁決定によってこの問題に決着がつけられた後もあくまでも殿岡テープの提出にこだわり、被告らから任意に提出された殿岡テープにいわゆる唱名部分が存在することを思い知らされるやこれまた一転して殿岡テープの「鑑定」結果を持ち出し、かつ、その間、実におびただしい(しかし、明らかに関連性の乏しい)証拠書類を提出し続けたのである。
本件訴訟が提訴以来七年以上も経過したのは、かかる原告の態度の故であったことは、それこそ誰の目にも明らかである。
他方、被告らは、一貫して、貴裁判所にすみやかな結審を求めた(なお、昭和五九年一〇月三〇日付けの被告村田および同堤の各上申書参照)。被告殿岡が貴裁判所の勧告に従い殿岡テープの任意的提出に応じたのもそのためである。
3 もし、原告自らが主張するように、被告殿岡の本件評論の違法性は、本件評論と本件著作物とを読み比べるだけで誰の目にも明らかであるのなら(*)、何故、原告は、被告らとともに、貴裁判所にすみやかな結審を求めなかったのか。
*原告の主張にも、「本件評論における『架空の引用』や『恣意的引用』が誤っていることは中学生程度の能力さえあれば、十分理解できる」とある。
原告は、すみやかな原告の名誉回復を求めているのではなかったか。
要するに、本件訴訟における原告の態度は、原告の主張を自ら裏切り、敗訴が必至であることを自認したに等しいものであったといわなくてはならない。原告の本件訴訟におけるかかる態度は、弁論の全趣旨として、銘記されなくてはならないのである(*)。
*なお、弁論の全趣旨として忘れてはならないことがほかにもある。
第一には、原告は、本件訴訟で、自らの住所を、訴状では「朝日新聞社内」、証言時には「長野県下伊那郡松川町元大島一五三八番地」とし、現実の住所を明らかにしなかったことである(原告一三回二丁裏〜三丁裏参照)。原告敗訴の場合原告が訴訟費用の負担を命じられる立場にあるからこそ、原告の住所を訴状で明示する必要があるが、いずれにしても原告の訴訟態度は誠実な権利行使とは程遠いものであった。
第二には、原告は、本件評論を『諸君!』に掲載した編集者は被告堤であると思い込み、訴状でもその旨主張したことである。被告村田に対する訴訟は、その後追加的に提起された。従って、被告堤に対する請求はその時点で直ちに取り下げられなくてはならなかったが、しかし、原告は、「反論文掲載拒否の違法」なる前代未聞の論法によって、被告堤を被告の座にしばり続けたのである。のみならず、原告は、「(被告堤は反論文の掲載を)三年間にわたって拒否し続けた。私にとってはこの方がもっと重大です。だから仕方なく提訴せざるを得なかった」などと公言し(<書証番号略>ゴチック体は原文のまま)、「原告をして本件訴訟に踏み切らせたのが、被告堤の態度であったといってもけっして過言ではない」(原告の主張)とまで主張する。
しかし、本当にそうだとすれば、被告村田が本件評論掲載時の編集者であったことが分かった段階で、原告は、本件訴訟そのものを取り下げなくてはならなかったはずである。本件訴訟提起の最大の根拠が原告の完全な誤解に基づくものだったことが明らかになったのであるから、言うまでもないが、裁判所は「意地」を貫くためにあるのではない。
いずれにしても、本件訴訟は、まことに不自然な形で提起され、維持されてきたのである。
こうして、被告こそが、あらためて「ことは極めて単純である」と主張しなくてはならないのであるが、そのことは被告殿岡の本件評論を読むだけで明らかである。
四 本件評論
1 さて、被告殿岡の本件評論とは、次のようなものである(<書証番号略>*)。
*なお、本件評論中の五八頁ないし六一頁の「本多記者の報道」と題する部分は省略した。
また、本件評論が「今こそ『ベトナムに平和を』」と題する評論であることからも明らかなように、原告が問題とする箇所の前後でも、被告殿岡は、ベトナム戦争当時の「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)の主張と行動を振り返り、「解放」後のベトナムの現実を指摘して、日本のマスコミや論壇のあり方を批判していることも忘れてはならない。
何故なら、それは、被告殿岡の本件評論が「公共の利害に関する事実にかかり、その目的がもっぱら公益を図るものである」ことを明瞭に示すものだからである。
焼身自殺か無理心中か
この事件について、本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」であるといっている。少し長い引用が続くが、比較のためにその部分を引いてみよう。
「事件は去年の六月一二日(この日付は一九七七年のこととなり、外電ともテープの証言とも大幅にずれている)の深夜のことだった。カントーの郊外フンヒエプの薬師禅院というお寺が火事になり、尼さん一〇人と坊さん二人合計一二人が焼け死んだ(僧侶と尼僧の数がテープと少し異なるが、同じ出来事について書いていることは間違いない)。
このヒエンは、解放前にバクリエウ省のホンヴァン郡にいた僧で旧サイゴン政権のスパイ活動をしていた。地元の革命政権がこれを怪しんで警告したところ、ヒエンはカントーに逃げて来た。ここで合法的な仕事をすることにし、鍼と灸を勉強する一方、ヤシ葉で屋根を葺いた簡単なお寺も建てた。二年前の全土解放後もそのままこの寺にいたが、思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係を持つようになり、寺にいた一〇人の尼さんのほか、近くの修道院の尼さんたちもあわせると、合計二六人を妻にしていた。寺の中で男の僧侶は彼の弟一人であった。このため大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食べなければならなくなっていた。
問題の日、ヒエンら一二人は夜七時ごろから宴会を始めた。宴会は午前零時ごろまでつづき、その間麻薬と睡眠薬が使われらしい。午前一時ごろ火事になった。近所の人が消火に集まったがすでにおそく、それにドアには鍵がかけられていた。ヒエン以外の一一人は、絶望的になった彼の自殺の巻添えをくったものと見られる。
『この事件は解放のあとで外国に逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。特にパリに多い反動分子たちは革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう。』
ティエン・ハオ師は以上のように語った。」(『ベトナムはどうなっているのか?』一七七―一七八頁)
国難、法難に殉ずるための焼身自殺と、尼僧との性的関係を清算するための無理心中とでは天地の違い、これ以上の落差は考えることも難しいくらいだが、真実は一つである。どちらが本当なのだろうか。
真実の探究
本多記者の紹介する話はいかにもインチキ臭いではないか。「スパイ活動していた」「寺の中で多くの尼さんと関係していた」「合計二六人を妻にしていた」「宴会」「麻薬と睡眠薬」といった小道具からしていかがわしい。大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食べなければならなくなっていた」僧侶が「麻薬と睡眠薬」を用いて六時間に及ぶセックス・パーティに興じていたというのである。
しかし何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。共産ベトナムで報道の自由は当然に存在していない。本多記者も「新生ベトナムと取材の自由」という文章の中ではっきりと確認している。
「残念ながら、その方法(現在のベトナムにおける取材の方法)は戦時下の『北ベトナム』における方法と全く同じか、あるいはそれ以上にきびしい取材制限下での『取材』であった。」(『ベトナムはどうなっているのか?』二六七頁)
従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。
もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。
私は本多記者がかつて南ベトナムでグエン・バン・チュー政権に抗議して自殺した女子大生のニャト・チー・マイを悼んで書いた文章を思い出すのである。サイゴン大学文学部の学生であったチー・マイの焼身自殺はベスト・セラーとなった『戦場の村』の六七頁から七二頁にかけて記されている。そこには国を思い、民族を思い、自由と平和を祈って若い命を投げうった者に対する熱い同情の涙が流れている。
あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。アラスカとニューギニアにつづいてベトナムでも本多記者は「足で書く」記者であったはずである。もちろん『戦場の村』の内容や方法についても批判は多い。しかし本多氏は現場に行って事実を確かめたうえで「自分はこう思う」と自己を守ることができた。しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムへの抗議は評価しないというなら、また取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を「ハノイのスピーカー」と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。
薬師禅院の火災現場では、十二人の遺体はわずか三つの粗末な棺に重ねもちにされて運び去られたという。完全に炭化した遺体は乱暴な扱いで音をたてて崩れたと、テープを持ち出した難民はジャック師に語ったそうである。
私は本多氏が記者としての性根をすえて真実を探究しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。そしてもしこれが本当に“セックス・スキャンダル”であったというのであれば、私は本多氏に詫びたうえで、ベトナムについての考え方を改めたい。僧尼がそんなふうでは自由なベトナムを回復するなどといったことは、とうてい望みがないからである。(<書証番号略>)
2 さて、原告は、本件評論の右箇所で、被告殿岡が、
① 本件著作物を引用するに当たって、冒頭の「愛国仏教会副会長で、日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、『外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です』として、ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした」との部分(以下「本件著作物の冒頭部分」という。)を欠落させて引用し、かつ、
② 「本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』、『堕落と退廃の結果』であるといっている」「本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いている」と記していることから、
被告殿岡は、「ハオ師の説明内容の紹介部分を原告の直接的な調査結果とし、かつ原告の見解であるとの虚偽の『事実』をつくりあげた。そうした虚構をもとに、不法にも原告を『堕落し』ており『筆を折るべき』とまで誹謗を加えているのである」(訴状五丁表)と主張する(前記反論文七丁表にも「このからくりの結果、ハオ師が語ったのは『二重カギの中』だけになってしまい、それ以外の長い「一重カギの中」は私自身の調査結果であるかのように化けてしまった」とある。)。
しかし、原告の右誹謗は全くの的外れというほかはない。
3 まず、そもそも被告殿岡が本件評論でハオ師の説明を原告の直接的調査結果として「引用」したなどということは絶対にあり得ないことである。
何故なら、被告殿岡は、本件評論で、何よりも、原告が直接的な調査をしないままハオ師の説明を活字にしたことを、繰り返し、かつ、一貫して、批判しているからである。
このことは、本件評論の以下の記述からも明らかではないか。
「本多記者の紹介する話はいかにもインチキ臭いではないか」「本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。」「本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。」「本多記者は『足で書く』記者であったはずである。……本多氏は現場に行って事実を確かめたうえで『自分はこう思う』と自己を守ることができた。しかし……取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」
つまり、被告殿岡の原告に対する批判は、原告が直接調査しないままハオ師の説明を活字にしたことに向けられているのであって、それ以外のものと理解することは絶対に不可能である。
要するに、本件評論において、本件著作物は原告の直接的な調査結果ではないものとして「引用」されているのであって、その逆では断じてない。
4 そして、このことは、原告がさかんに問題にする本件著作物の冒頭部分を本件評論の引用箇所にそのまま挿入したとしても、本件評論の趣旨が変容を来すことは全くないこと、かえって、その場合は、ハオ師の話が原告の直接的調査結果でないことをより一層鮮明にするという効果しか持たないことからも明らかであろう。
もし、原告が主張するように、本件評論における本件著作物の引用が原告自身の直接的調査結果と読まれてしまえば、本件評論の後段で展開される被告殿岡の原告に対する批判は、全く意味不明のものとなってしまうであろう。
要するに、「一般読者の普通の注意と読み方」を基準とするまでもなく、本件評論における本件著作物の引用は全て原告自身の直接的調査結果でないとしか理解できないのであって、これと全く逆の理解を前提とする原告の前記主張は、それこそ(本件評論中の片言隻句を捉えて)全くありもしない「虚構」をねつ造したものというほかはないのである。
5 では、被告殿岡が「本多記者は『焼身自殺などというものとは全く無縁の代物』、『堕落と退廃の結果』であるといっている」「本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いている」と記したことは、どのように理解すべきか。
なるほど、原告が主張するように、「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」という言葉は本件著作物ではハオ師が用いた言葉とされているし、「堕落と退廃の結果」という言葉は著作物で(ハオ師の言葉としても)用いられていない。また、「本多記者は、……といっている」とか「本多記者は、……断定して書いている」という言葉も、一見すると、不正確であるように思える(被告殿岡も「比較してみますと、必ずしも正確ではありません」と率直に証言した<殿岡一五回二五丁表>)。
しかしながら、そもそも、前記のとおり、被告殿岡の原告に対する批判は、原告が直接的な調査をしないままハオ師の説明を活字にしたことに向けられているのであるから、原告が主張するように、原告の直接的調査結果であることを表現するために、「本多記者は、……といっている」とか「本多記者は、……断定して書いている」との言葉が用いられているのでは絶対にないことも明瞭である。
そして、そのことは、繰り返しになるが、「本多記者の紹介する話はいかにもインチキ臭いではないか」、「本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである」、「従って、カントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている」という本件評論の核心部分に照らしても明らかである。
6 ところで、「引用」なかんずく要約的な「引用」は、引用する者の「理解」を前提にするものであるところ、人の「理解」はある程度の幅を持つものであるから、ある「理解」が一般読者の注意と読み方を基準として十分可能であれば、それに基づく「引用」が、たとえ原文と多少異なったとしても、違法とされることはないといわなくてはならない。
本件に即していえば、被告殿岡の本件評論における「引用は」は、被告殿岡の本件著作物に関する一定の「理解」に基づいてなされたものであるが、被告殿岡の「理解」すなわち、「原告自身も、ハオ師と同様に、本件事件を無理心中であるかのように日本の読者に伝えようとしている」という「理解」が一般読者の注意と読み方を基準として十分可能であれば、前記の如き「引用」も許されることになる(*)。
*原告自身、「もし私の著書『ベトナムはどうなっているのか?』で、この愛国仏教会の説明を丸ごと信じ、それを支持しているのであれば、殿岡氏のやり方がいくら無茶でもあまり文句が言えなかっただろう」(前記反論文六丁裏)と書いている。
7 さらに、本件評論は、学術論文ではなく、一般大衆を読者として想定する月刊誌の政治評論であるから、読者の興味を引き、自己の主張をアピールするような表現がある程度は許されるということも忘れてはならない。
つまり、本件評論中の本件著作物の「引用」が微視的にみると正確を欠くように思われても、全体的にみれば誤りないものと判断される場合は、それが違法とされることはないのである。
そして、何よりも本件評論が「政治」評論であることが、より広く自由な表現が認められなくてはならないことを意味する。政治的表現の自由こそ自由な表現の中核に位置するからである。
8 この点に関し、反論権に関する最も重要ないわゆるサンケイ新聞意見広告事件に関する最高裁判決(最高裁第二小法廷昭和六二年四月二四日判決、民集四一巻三号四九〇頁)が参考になる。
同判決は、次のように判示した。
「民主制国家にあっては、表現の自由、とりわけ、公共的事項に関する表現の自由は、特に重要な憲法上の権利として尊重されなければならないものであることにかんがみ、当該表現行為が公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合には、当該事実が真実であることの証明があれば、右行為による不法行為は成立せず、また、真実であることの証明がなくても、行為者がそれを真実であると信じたことについて相当の理由があるときは、右行為には故意又は過失がないと解すべきものであって、これによって個人の名誉の保護と表現の自由の保障との調和が図られているものというべきである(前掲昭和六一年六月一一日大法廷判決)。そして、政党は、それぞれの党綱領に基づき、言論をもって自党の主義主張を国民に訴えかけ、支持者の獲得に努めて、これを国又は地方の政治に反映させようとするものであり、そのためには互いに他党を批判しあうことも当然のことがらであって、政党間の批判・論評は公共性の極めて強い事項に当たり、表現の自由の濫用にわたると認められる事情のない限り、専ら公益を図る目的に出たものというべきである。
これを本件についてみるに、本件広告は、自由民主党が上告人(引用者注・日本共産党)を批判・論評する意見広告であって、その内容は、上告人の『日本共産党綱領』(以下『党綱領』という。)と『民主連合政府綱領についての日本共産党の提案』(以下『政府綱領提案』という。)における国会、自衛隊、日米安保条約、企業の国有化、天皇の各項目をそれぞれ要約して比較対照させ、その間に矛盾があり、上告人の行動には疑問、不安があることを強く訴え、歪んだ福笑いを象ったイラストとあいまって、上告人の社会的評価を低下させることを狙ったものであるが、党綱領及び政府綱領提案の要約及び比較対照の仕方において、一部には必ずしも妥当又は正確とはいえないものがあるものの、引用されている文言自体はそれぞれの原文の中の文言そのままであり、また要点を外したといえるほどのものではないなど、原審の適法に確定した事実関係のもとにおいては、本件広告は政党間の批判・論評として、読者である一般国民に訴えかけ、その判断を待つ性格を有するものであって、公共の利害に関する事実にかかり、その目的が専ら公益を図るものである場合に当たり、本件広告を全体として考察すると、それが上告人の社会的評価に影響を与えないものといえないが、未だ政党間の批判・論評の域を逸脱したものであるとまではいえず、その論評としての性格にかんがみると、前記の要約した部分は、主要な点において真実であることの証明があったものとみて差し支えがないというべきであって、本件広告によって政党としての上告人の名誉が毀損され不法行為が成立するとすることはできない。」
9 要するに、表現の自由のなかでも最も重要な「政治的表現」に属する本件評論における本件「引用」に関しても、「全体として考察する」必要があり、かつ、「批判・論評の域を逸脱したものである」か否かという観点から、これを論ずる必要があるのである(*)。
*したがって、本件著作物中に「堕落と退廃の結果」という言葉がないことは、本質的な問題ではない。何故なら、本件著作物には、ハオ氏の説明としてではあるが、「思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係を持つようになり、寺にいた一〇人の尼さんのほか、近くの修道院の尼さんたちもあわせると、合計二六人を妻にしていた。」
という表現があるからである。
そこで、被告殿岡が本件評論で本件著作物を歪曲して「引用」したことになるのか否かは、結局、一般読者の注意と読み方を基準として本件著作物を読んだ場合、原告自身も、ハオ師と同様に、本件事件を無理心中であるかのように日本の読者に伝えようとしていると理解できるかどうか、ということに帰着することになる(*)。
*つまり、「本多記者は、……といっている」、「本多記者は、……断定して書いている」という表現は、原告自身の直接的な調査結果であることを示すものとしてではなく、原告自身の見解であることを示すものとして用いられており、そのことの可否が問題の焦点なのである。
六 本件著作物
1 そこで、原告の本件著作物を見てみる必要がある。それは、次のようなものであった(<書証番号略>)。
一二人の集団“焼身自殺”事件
前章に出てくるファム・ヴァム・コー(フエ・ヒエン師)の事件とはどういうことであろうか。この『ティンサン』紙の報道より二〇日ほど前に、私たちは愛国仏教会とのインタビューでこの件について詳しく聞いていた。愛国仏教会は愛国知識人会と同様に、革命政権に協力するための仏教界での組織であって、これまでに仏教界の一七派に加わっている。愛国仏教会とのインタビューは、一九七一年に完成した国寺派の中心としての永厳寺で行われた。この事件は日本ではそれほど騒がれなかったが、ベトナムからフランスに逃げた一部の仏僧が「一二人の僧が革命政権に抗議して焼身自殺した」と声明書を出したため、西欧などではかなり大きく取上げられている(注)。愛国仏教会副会長で、日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、「外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です」として、ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。
事件は去年の六月一二日の深夜のことだった。カントーの郊外、フンヒェブ郡の薬師禅院(ズクステイエンヴィエン)というお寺が火事になり、尼さん一〇人と坊さん二人合計一二人が焼け死んだ。この中にいたフエ・ヒエン師という三二歳の男が事件の首謀者である。
このヒエンは、解放前にはバクリエウ省(現在ミンハイ省)のホンヴァン郡にいた僧で、旧サイゴン政権のスパイ活動をしていた。地元の革命政権がこれを怪しんで警告したところ、ヒエンはカントーに逃げて来た。ここで合法的な仕事をすることにし、鍼と灸を勉強する一方、ヤシの葉で屋根を葺いた簡単なお寺も建てた。二年前の全土解放後もそのままこの寺にいたが、思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係を持つようになり、寺にいた一〇人の尼さんのほか、近くの修道院の尼さんたちもあわせると、合計二六人を妻にしていた。寺の中で男の僧侶は彼の弟一人であった。このため大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食べなければならなくなっていた。
問題の日、ヒエンら一二人は夜七時ごろから宴会を始めた。宴会は午前零時ごろまでつづき、その間麻薬と睡眠薬が使われたらしい。午前一時ごろ火事になった。近所の人が消火に集まったがすでにおそく、それにドアには鍵がかけられていた。ヒエン以外の一一人は、絶望的になった彼の自殺の巻添えをくったものと見られる。
「この事件は解放のあとで外国へ逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。特にパリに多い反動分子たちは、革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう」
ティエン・ハオ師は以上のように語った。
<注>日本では『朝日新聞』のパリ発のロイター電として去年(一九七六年)九月九日夕刊に小さく報道されており、それには一九七五年一一月二日の事件として、僧侶三人と尼僧九人が新政権の宗教政策に抗議して集団焼身自殺したと伝えている。
2 以上が本件評論で引用された本件著作物の該当箇所の全部であるが、原告は、これを原告の見解を交えない純然たる「発表モノ」であり、あたかも中曽根元首相の知的水準発言について責任を負うのが中曽根首相であると全く同様に、ハオ師の発言内容について責任を負うのはハオ師自身であり、原告がその内容について批判される筋合いのものではないと主張する。
そして、その根拠として、右記述のハオ師の説明の前後に「ハオ師が事件の現場調査をして現結果を以下のように明らかにした」「ティエン・ハオ師は以上のように語った」と発言の主体が明記され、かつ、本件著作物の二六八頁に「そうでなれば『当局によれば』として「発表モノ」をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七ページ参照)」と記されていることを指摘する。
しかしながら、本件著作物の右記述は、原告の見解を交えない、いわゆる「発表モノ」では絶対にない(*)。
*なお、純然たる「発表モノ」の場合でも、これを報道したものに全く責任がないのかといえば、そうではない。
中曽根元首相の知的水準発言は、発言自体に問題があるとして報道された場合(すなわち「問題発言」の報道)であるから、これを報道した者が責任を問われるはずもないが(したがって、中曽根発言は「発表モノ」の例として必ずしも適切ではないのである)、例えば、原告が言及する他の「発表モノ」である警察発表の場合、そうではない。
つまり、警察発表をそのまま活字にした場合でも、その内容が真実に反しある人の名誉を毀損する場合には、誤った警察発表を広く流布させたという意味において、これを報道した者にも一定の責任が生じ得るからである(警察発表自体が疑わしい場合は、殊にそうである。)
しかも、原告は、「立場のない選択というものは有りえない」「客観的報道というものは幻想にすぎない」「新聞記者は、意味のある事実の選択、すなわち主観的事実によって勝負する」「書かれた事実はすべて、ライターの目を通して選択された主観的事実である」(<書証番号略>『事実とは何か』二一頁、二九頁、四二頁、なお、二四〇〜二四一頁、二九二頁参照)という見解の持ち主ではなかったか。
なお、若干問題状況は異なるが、編集者の責任も「発表モノ」に関する記者の責任に類似している。原告の論法によれば、編集者は執筆者の見解を「発表」するだけでありその内容に責任を負わないということになりかねないが、かかる議論が誤りであることは多くを論ずるまでもない。被告村田もそのような無責任な主張はしない。
したがって、「発表モノ」であるから執筆者の責任が問われることはない旨の原告の主張は、それ自体として誤っているといわなくてはならないが、しかし、本件では、かかる議論をするまでもなく、本件著作物における「ハオ師の説明は「発表モノ」の範疇を明らかに逸脱したものなのである。
3 第一に、本件著作物における原告の記述の見出しは、「一二人の集団“焼身自殺”事件」とされ、西側での「焼身自殺」報道を原告自身が疑っているとしか理解できない表記が用いられている。
現に、「焼身自殺」という言葉が用いられた本件著作物の箇所を全て抜き出してみると、次のように常に否定的な文脈で用いられていることが分かる。
「ベトナムからフランスに逃げた一部の仏僧が『一二人の僧が革命政権に抗議して焼身自殺した』と声明書を出したため、西欧などではかなり大きく取上げられている(注)。」
「ティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、『外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です』として、ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」
「『……このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう』」
そして、本件著作物中の明らかに原告自身の見解を述べた箇所で、「焼身自殺」という言葉は、明確に否定的な文脈で用いられた。
「たとえばまた、西側で宣伝された事件のひとつに、去年カントー(メコン・デルタ最大の都市)で起きた『一二人の焼身自殺』がある。これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。」(<書証番号略>)
つまり、原告の本件著作物において、本件事件の真相は「焼身自殺」ではないという意味合いを込めて“”の表記が用いられているのである。
4 第二に、本件著作物における原告の記述は、「前章に出てくるファム・ヴァム・コー(フエ・ヒエン師)の事件とはどういうことであろうか」という原告自身の読者に対する問いをもって説き起こされているからである。
したがって、読者は、これに引き続く記述を、本件事件についての原告自身の見方(あるいは本件事件の真相)が語られるものとの期待のもとに読まされることになる。本件著作物における「ハオ師の説明」は、一方当事者の見解を、執筆者自身の見解を交えない、単に資料として紹介する場合とは明らかに異なる体裁のもとに記述されているのである。
要するに、原告は、本件著作物で、自らの見解とは一切無関係に、ある者(一方当事者)の「発表」を読者に提示する論述の仕方を採用していないといわなくてはならない。
5 第三に、原告は、本件事件を焼身自殺とする側に関しては、常に一定の留保を付して記述しているが、本件事件を無理心中だとする側に関しては、常に好意的な言葉を用いて記述しているからである。
原告は、「いかなる点からも誤解の余地のない記述」(原告の昭和五九年九月四日付け準備書面四丁表)、「論脈・表記方法等あらゆる点に考慮を払い、誤解されないように記述されている」(同六丁表)などと揚言するが、断じてそうではない。
すなわち、本件事件を焼身自殺だとする側に関する原告の記述は、「フランスに逃げた一部の仏僧が、……声明書を出したため、西欧などではかなり大きく取上げられている」とあり、わずかに注として朝日新聞の報道内容が記されているだけであるのに比し、本件事件を無理心中だとする側に関する記述は、「愛国仏教会副会長で、日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、……ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。」として、ほぼ一頁にわって括弧書きで括ることもなく無理心中に至るまでの事実経過が詳細に記され、最後の段落にのみ括弧書きが用いられ、「この事件は解放のあとで外国へ逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。特にパリに多い反動分子たちは、革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を、“集団焼身自殺”にでっちあげて声明を発表したのでしょう」とハオ師の言葉が引用されている。
かかる記述を読む者は、冒頭で紹介された「フランスに逃げた一部の仏僧が出した声明」は全くのでっち上げだったのだと理解し、しかも、それが「ファン・ヴァン・コーの事件とはどういうことであろうか」という原告の問いに対する答えであると理解するしかないではないか(*)。
*なお、「朝日新聞」の記者である原告が、自らの著作物で「朝日新聞」の報道内容をわずかに注として紹介し、これと異なる事実を本文中に詳細に記せば、これを読む者は原告自身は「朝日新聞」の報道に疑問をもっているとしか受けとらないであろう。
また、「西欧などではかなり大きく取上げられ(た)」が、「日本では『朝日新聞』の場合パリ発のロイター電として…夕刊に小さく報道されており、…と伝えている」との記述から、「朝日新聞」は本件事件について、「西欧など」とは違う見方をしたと読めなくもない。
しかし、いずれにしても、本件著作物を通じ、本件事件の真相は焼身自殺ではなく無理心中であったと一般読者が理解することに変りはない。
6 そして、第四に、原告自身が、ハオ師と同様に、日本の読者に本件事件は無理心中だったと伝えようとしていることは、何よりも、本件著作物に付録として収録された「『古き友』はなぜ背を向ける?―新生ベトナムと取材の自由」中の以下の記述によって明らかである。
「引用」しよう。
〔ベトナムの「古き友」である「ジョン・バエズ(反戦フォーク歌手)やダニエル・エルスバーグ(ペンタンゴン秘密文書を新聞社に流した学者)」さらには「フランスではベトナム通ジャーナリストとして有名なジャン・ラクチュール」らが「ベトナムの背を向けはじめた」ことに対する対外文化連絡委員会の委員長代理(事実上の委員長)ヴー・コク・ウイ氏」の見解を紹介したのち、〕
「こうしたベトナム人の視点もまた実にもっともだし、それは私自身も『肌で』感じとることができる。問題はただ一点、本当にその通りかどうか、つまり事実として『思想的に進んだ者で、かつ志願した者が移住する』という民主的方法が実践されているかどうかを、ジャーナリストとしての私自身も『現場で実情をよく見て』確認すること、それだけにあるだろう。」(<書証番号略>二六二頁〜二六三頁。傍線は原文では傍点)
〔さらに、「ジャーナリスト会議書記長のルー・クイ・キイ氏」のラクチュールに関する意見を紹介したのち、〕
「ラクチュールについてルー・クイ・キイ氏はおよそこのように論評した。これまたまことに正しい意見だと思う。ただ、やはり問題は、ただ一点、『状況を正しく反映するような報道』のために、私自身がなっとくできるまで取材してこの言葉の裏付けをすること、それだけである。」(同二六五頁。傍線は原文では傍点)
「しかし、ラクチュールの論評が全く誤っていて、ウイ氏やキイ氏の言葉が正しいことを、私が自信をもって読者に伝えるためには、私自身なっとくできるまで取材しなければならない。そのためには、あらゆる現場を自由に取材しなければならぬ。裏も表もすべて調べ、何よりも現場の民衆の声を自由にきくことが必要だ。これまでの私のルポルタージュの方法は、一貫してそうしてきたつもりである。
ただ、旧『北ベトナム』の取材については、この点は困難であった。民衆に自由に接し、自由に話をきくことは、ハノイの役人が常に同行しているのでは無理である。また取材対象を選ぶときも、私自身が自由に選ぶことは稀有だった。それはハノイ側が選んだ上で取材させるのが常であった。だが、世界最強の合衆国と全面戦争をしている中では、これは仕方のないことだと思った。こんな戦時下に外国人記者――とくに西側の、ときには敵国の記者――を入国させたこと自体、たいへんなことである。
だが、今は違う。米軍は完敗して手をひき、平和になり、統一も達成し、民族自決を一〇〇余年ぶりにかちとり、ウッドコック団長らの旧敵国の民間使節団さえもハノイを訪れている。もはや自由な取材を制限すべき理由はない。私はルー・クイ・キイ氏に率直にきいた。チュー政権下の旧『南ベトナム』がいかにひどい状況だったかは、私自身自由に取材できたからこそ、説得力をもつことができた。その結果としての『戦場の村』は、さいわい多くの読者の支持と共感を得た。全く同様に、新しいベトナムが真にすばらしいことを、説得力あるルポルタージュとして書くためには、あらゆる民衆と自由に語り、どこへでも自由に出かけていって取材できなければならない。もちろんさまざまな矛盾はあるだろう。ハノイにとっては知られたくないことも取材中に出てくるだろう。しかしその上で『やっぱり基本的にこの革命はすばらしい』ことが書けるならば、キレイゴトだけで仕上げるよりも、はるかに説得力がある。今こそ『自由な取材』をさせるべきではないか……。」(同二六五頁〜二六六頁。傍線は原文では傍点。……も原文のまま)
要するに、原告は、ベトナムに背を向けるようになったラクチュールらの「古き友」とは異り、新生ベトナムが素晴らしいことを未だに信じている(あるいは、信じようとしている)から、「説得力あるルポルタージュ」が書けるように、せめて自分にだけは「自由な取材」を認めるべきではないか、と嘆いてみせているのである。
そして、新生ベトナムの「問題はただ一点」「私自身がなっとくできるまで取材してこの言葉の裏付けをすること、それだけである」というのである。
何という、ベトナムに対する思い入れ(そして、自分自身に対する思い上がり)であろう。
7 そして、次のような問題の記述がこれに続く。
「こうしたいきさつのあとで、私たちはハノイからホーチミン市へ飛行機で行き、旧『南ベトナム』の各地を取材した。残念ながら、その方法は戦時下の『北ベトナム』における方法と全く同じか、あるいはそれ以上にきびしい取材制限下での『取材』であった。サイゴン市内を出歩くことは自由だから、スキをみて民衆に接するチャンスはあったが、たとえば新経済地域へ行くとき、どこの新経済地域を選ぶかは私の自由ではないし、その現場では少なくとも三人、多いときは七、八人もの幹部たちと一緒に『民衆の声』をきくことになった。
私は困った。これでは説得力あるルポルタージュによって『新生ベトナムのすばらしさ』を描くことができない。『現場で実情をよく見る』(ヴー・コク・ウイ氏)ことが、これではできない。表面的な『取材』による限りでは、たぶんすばらしい方向に進みつつあるようだ。そう信じたい。しかしラクチュールの危惧が完全に杞憂だったと、確信を抱いて報告するわけにはいかない。ベトナムのために、ひいては社会主義のために、これは残念なことだと思う。サイゴンでは、新経済地域に関するいろんなマイナスのうわさや体験談もきいた。しかしそれらが単なる例外かデマだとして否定するためには、自由な取材をどうしても必要とする。
たとえばまた、西側で宣伝された事件のひとつに、去年カントー(メコン・デルタ最大の都市)で起きた『一二人の焼身自殺』がある。これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。しかし、西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として「発表モノ」をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七ページ参照)。
いうまでもなく、たとえば日本の新聞記者が警察発表による一方的な記事を書く、といった問題はある。トンキン湾事件はワシントン(ペンタゴン)のでっち上げを、アメリカ人記者をはじめ西側ジャーナリストがそのまま一方的に書きまくった結果だ。にもかかわらず、それとこれとは意味が異る。
F
私がここに紹介したことは、取材という私自身に直接関係する側面だけである。しかしこうしたことが結局は『古き友』をベトナムから背かせる遠因につながっていないだろうか。悪意ある反動側のベトナム攻撃・中傷に対して、かつて純粋に熱い連帯を示した人々が確信をもって反撃したくても、それができない状況にあることを、ベトナムの『幹部』たちはまだ理解できないようだ。それが『古き友』をいらだたせ、去ってゆくことの大きな一因になってはいないだろうか。帝国主義の性格を少しも変えてはいないワシントン政権やパリ政権や東京政権が、背後であやつっているさまざまな陰謀もあるだろう。しかしチョムスキーもバエズもラクチュールも、それだけで動かされている連中だと割り切ってしまっては、少しまずいのではあるまいか。
だからといって、私はベトナムがひどい国になりつつあるというのではない。たぶん『一〇倍も美しい祖国に築き上げ』(ホー・チ・ミン)られつつあると思う。そう信じたい。ただ、心ゆくまでの取材による確信をもってそれを報告できないだけである。」(<書証番号略>二六七頁〜二六九頁)
右記述が原告自身の見解の表明であることは明らかであるが、それにしても、何らの躊躇もなく、「悪意ある反動側のベトナム攻撃・中傷に対して、かつて純粋に熱い連帯を示した人々が確信をもって反撃したくても、それができない」とか、「帝国主義の性格を少しも変えてはいないワシントン政権やパリ政権や東京政権が、背後であやつっているさまざまな陰謀もあるだろう」と書くことができた原告は、幸せである。
社会主義政権の現実がいかに悲惨なものであったかをそれこそ世界中が知ってしまった現在、このような文章を書く人物がジャーナリストとして通用しないことは、それこそ誰の目にも明らかである。彼にはせいぜいどこかの党派の機関紙の執筆者程度しか勤まるまい。
しかし、原告が「『古き友』はなぜ背を向ける?」を執筆した当時(昭和五二年四月)(*)、原告は、臆することなく、ベトナムのために「西側の宣伝に対して確信をもって反論する」決意を表明することができた。
*この「『古き友』はなぜ背を向ける?」は、昭和五九年一月に発行された『事実とは何か』(<書証番号略>)にもそのまま収録されている。原告は、昭和五九年の段階に至っても、ベトナムに対する「熱い連帯」を表明し続けたのである。
そして、本件事件は、「西側の宣伝に対して確信をもって反論する」格好の例として、原告自身によって「選択」され、本件著作物で次のように記された。「引用」を再び繰り返す。
「たとえばまた、西側で宣伝された事件のひとつに、去年カントー(メコン・デルタ最大の都市)で起きた『一二人の焼身自殺』がある。これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。しかし、西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として「発表モノ」をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七ページ参照)。
いうまでもなく、たとえば日本の新聞記者が警察発表による一方的な記事を書く、といった問題はある。トンキン湾事件はワシントン(ペンタゴン)のでっち上げを、アメリカ人記者をはじめ西側ジャーナリストがそのまま一方的に書きまくった結果だ。にもかかわらず、それとこれとは意味が異る。」
8 原告が本件訴訟で度々言及した中曽根発言(*)を用いて原告の右の論述の趣旨を検討してみよう。
*中曽根発言が「発表モノ」として適切でないことは、前述したが、ここでの議論には関係がない。執筆者が発言内容に責任を負わないことが明らかな場合を想定して、原告の論述に当てはめてみるとどうなるかがここでの問題だからである。従って、中曽根発言はむしろ「格好の例」といえるかもしれない。
原告の論述に中曽根発言を当てはめると、例えば、次のようになる。
「西側で宣伝されたことのひとつにアメリカ人の知的水準は社会主義国に比べて高いということがある。それは資本主義の一つの成果だといわれているが、中曽根元首相によれば、アメリカ人の知的水準は日本人に比べると明らかに劣っている。アメリカ人の高い知的水準といってもそれだけのことだ。しかし、西側の宣伝に私が確信をもって反論するためには、私自身がアメリカで十分に取材する必要がある。そうでなければ『中曽根首相によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない。
いうまでもなく、たとえば日本の新聞記者が警察発表による一方的な記事を書く、といった問題はある。にもかかわらず、それとこれとは意味が異る。」
こう書けは、「私」が中曽根元首相の発言を支持している(または、支持しようとしている)としか理解できないではないか。
9 ところで、「焼身自殺」といえば、現在韓国国内で多くの青年が盧泰愚政権に対する抗議としてあいついで焼身自殺したことが伝えられている。
しかし、例えば、次のように書く者がいたとすれば、ひとはどのように判断するであろうか。
「東側で宣伝された事件のひとつに、最近韓国で起きた多数の青年の『焼身自殺』がある。これは盧泰愚政権への抗議自殺だといわれているが、韓国当局の調査によれば、全て家庭不和・失恋などのために世を儚んだ青年の自殺にすぎず、それがたまたま流行しただけのことだ。しかし、東側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接ルポとするわけにはゆかない。
いうまでもなく、たとえば日本の新聞記者が警察発表による一方的な記事を書く、といった問題はある。トンキン湾事件はワシントン(ペンタゴン)のでっち上げを、アメリカ人記者をはじめ西側ジャーナリストがそのまま一方的に書きまくった結果だ。にもかかわらず、それとこれとは意味が異る。」
このような記事が、「焼身自殺」した韓国の多数の青年の名誉だけでなく、その遺族の感情をも深く傷付けるものであることはいうまでもない。もし、日本でこのような記事を書く者がいるとすれば、彼は、間違いなく、無責任かつ悪質なデマを流す者として厳しく糾弾されるに違いない。そして、国際的な大問題になるに違いない。
10 しかし、声を大にして言わなくてはならないが、原告は、ベトナムで起こった「十二人の僧尼」の「焼身自殺」に関して、これと全く同様の記事を、現に活字にしたのである。
もう一度「引用」する。
「たとえばまた、西側で宣伝された事件のひとつに、去年カントー(メコン・デルタ最大の都市)で起きた『一二人の焼身自殺』がある。これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。しかし、西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七頁参照)。
いうまでもなく、たとえば日本の新聞記者が警察発表による一方的な記事を書く、といった問題はある。トンキン湾事件はワシントン(ペンタゴン)のでっち上げを、アメリカ人記者をはじめ西側ジャーナリストがそのまま一方的に書きまくった結果だ。にもかかわらず、それとこれとは意味が異る。」
しかし、「何より問題なのは、原告がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。」「原告は現場に行かず、行けずに、この十二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。/もちろん逃げ道は用意されている。原告はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。/私は原告がかつて南ベトナムでグエン・バン・チュー政権に抗議して自殺した女子大生のニャト・チー・マイを悼んで書いた文章を思い出すのである。サイゴン大学文学部の学生であったチー・マイの焼身自殺はベスト・セラーとなった『戦場の村』の六七頁から七二頁にかけて記されている。そこには国を思い、民族を思い、自由と平和を祈って若い命を投げうった者に対する熱い同情の涙が流れている。/あの原告はどこに行ってしまったのだろうか。アラスカとニューギニアにつづいてベトナムでも原告は『足で書く』記者であったはずである。もちろん『戦場の村』の内容や方法についても批判は多い。しかし原告は現場に行って事実を確かめたうえで『自分はこう思う』と自己を守ることができた。しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムへの抗議は評価しないというなら、また取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま原告を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」「私は原告が記者としての性根をすえて真実を探究しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本を書いたというのでは言訳はできない。原告は筆を折るべきである。」
「原告」とあるのを「本多記者」あるいは「本多氏」と置き換えれば、それがすなわち被告殿岡の本件評論であることは、いうまでもない(*)。
*したがって、原告は「伝聞で書いている」という表現と(原告が本件訴訟でさかんに問題にする)「といっている」あるいは「断定して書いている」という表現は、何ら矛盾しないことになる。
すなわち、被告殿岡は、原告が「伝聞」(※)によって、本件事件が無理心中であると「いっている」「断定して書いている」(※※)ことを批判したのである。原告は、「伝聞」によってではなく、「足で書く」べきだった。
※すなわち、原告の直接的調査ではない「政府御用の仏教団体の公式発表」
※※すなわち、ハオ師と同様に、本件事件を無理心中であるかのように日本の読者に伝えようとしている。
11 被告殿岡の本件評論は、原告にとって厳しすぎるものかもしれないが、しかし、謙虚に聞くべきものである。
「報道する側の論理で報道してはまずいのではないか。報道される側がどういうふうに見るかということをいつでも念頭に置きながら報道するのでなかったらおかしくなるんじゃないか」とは、他ならぬ原告自身の言葉ではなかったのか(<書証番号略>)。
七 名誉毀損?
1 ところで、これまでの論述から明らかなように、被告殿岡の本件評論が原告の名誉を毀損するのは、本件事件の真相が焼身自殺だった場合であることを改めて確認しておく必要がある。
すなわち、被告殿岡が本件評論で「原告は、本件著作物で、本件事件を焼身自殺とは全く無縁の無理心中であるかのように記述した」と「引用」したとしても、そのことが直ちに原告の名誉を毀損することにはならないのである。
もし、本件事件の真相がハオ師の説明どおり無理心中だったとすれば、原告は、逆に、本件事件の真実を日本に初めて伝えた記者として讃えられるに違いない。
したがって、被告殿岡の「引用」が原告の名誉を毀損する場合とは、本件事件の真相が焼身自殺だった場合であり、原告による本件「名誉毀損」訴訟の提起は、実は、本件事件の真相が焼身自殺にほかならないことを原告自ら自認したことを意味したのである。
2 このことを最初に指摘したのが被告殿岡の昭和六〇年五月二八日付け準備書面であったが、しかし、原告は、昭和六〇年七月九日付け準備書面で、右準備書面の求釈明に対し、「このように本件評論は、報道の初歩的原則の躊躇、インチキな引用と虚偽事実の捏造という構造をなしているのである。……被告殿岡は、原告に対し、ファン・ヴァム・コー事件の真偽について釈明を求めているが、原告は、制限された取材活動の下にあったため、原告自信(「自身」の誤記であろう)がその真偽について取材をして、その判断をなすことが不可能であったからこそ、真偽についての判断を留保し、“発表モノ”と限定して報じたのである」(同三丁裏)、「この区別(引用者注・発表モノか否かの区別の意)は前記のとおり、初歩的原則に属する事柄なのである。したがって、原告が右のとおり留保した事柄について『釈明』を求めるのは、報道についての基本的認識を欠いた見解に他ならず、噴飯ものであって、釈明に値しない」(同四丁表)と主張し、釈明を拒否した。
つまり、原告は、原告がその真偽につき判断を留保し「発表モノ」として記述したにすぎないものを原告自身の判断が示されたものとして引用したことの当否を本件訴訟で問題にしているのであるから、本件事件の真偽について釈明する必要はない、というのである(*)。
*原告自身、事件の真相は「著者としては分からない」「判断は留保せざるをえない」旨供述した(原告一二回六二丁裏)。
3 しかし、他方、原告は、原告の昭和六〇年五月二八日付け準備書面に添付された反論文で、「(被告殿岡の本件評論は)、私のベトナム報道に関して、事実と異なるばかりか、むしろ正反対のでっちあげをした上で私を非難中傷した。これはひどい名誉毀損になるので、私はジャーナリズムの常識的手続きとして、まず本誌の投書欄に短い反論文を送った」(同一丁表)とか、「殿岡氏は私の意図と全く正反対のことを、私の意図として紹介し、私にヌレ布を着せて世間をだましたのである」(同八丁裏〜九丁表。傍線は原文どおり)と主張した。
原告の右主張によると、原告はハオ師の「発表」が虚偽のものではないかということを「意図」して「報道」したにもかかわらず、被告殿岡は「全く正反対」に、原告はハオ師の「発表」が真実であるかのように「意図」して「報道」したと「紹介」(「引用」)し、原告を批判したかのように読める。
実際、そのような場合にはじめて、被告殿岡の「引用」が原告の名誉を毀損するというべきである。つまり、本件評論が名誉毀損になる場合とは、本件評論での「引用」が原告の意図と全く正反対であった場合、つまり、原告の意図も本件事件の真相は焼身自殺であるというものだった場合(少なくともハオ師の無理心中説は疑問であるという場合)でしかないのである(*)。
*先にも引用したが、原告は、このことを逆に、「もし私の著書『ベトナムはどうなっているのか?』で、この愛国仏教会の説明を丸ごと信じ、それを支持しているのであれば、殿岡氏のやり方がいくら無茶でもあまり文句が言えなかっただろう「(前記反論文六丁裏)と書いていた。
しかし、本件著作物から判明することは、原告がハオ師の説明を疑おうともせず懸命にこれを支持しようとしていることだけであることは既にみた。
そうであるというのに、前記のとおり、原告は、本件著作物ではハオ師の説明の真偽についての判断を留保したと主張し、被告殿岡の求釈明を「噴飯もの」といい、釈明を拒否した。
4 ところで、原告の『貧困なる精神』c集に収録された(*)「マスコミにいじめられる側の論理」と題する「本多勝一氏の裁判を支援する会」第一回公開シンポジウムの記録によれば、同シンポジウムの席上、原告訴訟代理人(渡辺春己弁護士)は、原告が同席している場で(**)、原告はハオ師の説明に疑問を感じながら本件著作物を執筆した旨発言していることが明らかである(<書証番号略>)。
*・**従って、渡辺弁護士の見解は、原告自身の見解と理解して差し支えないであろう。
曰く、「これについて、ベトナム当局では記者会見を行ないましてベトナム当局の弁明といいますか、説明を行ないました。……そこで本多さんは、その本の中でこのベトナム当局の弁明を、表記の上でも、この記者会見で説明を行なったハオ師の言葉をはっきりと利用しながらそのまま発表モノとして掲載しました。また、その本で、本多さんはわざわざ、調査結果ではない、ということを断わって――本多さんおそらく内心、これはベトナム当局の弁明にかなり問題があるということだったと思いますけれども――先程いったような書き方をしたわけです。」(同一六六頁*)
*ほかにも「これに対しまして、本多さんとしてはこの『ベトナムはどうなっているのか?』の記事は自分の見解ではない、これはベトナム当局のハオ師の弁明を当事者側の弁明(いわゆる発表モノ)として報道にしたにすぎないのであって、しかも、はっきりと自分の調査結果ではないと断わっている。にもかかわらずこれを歪曲して中傷しているから、このままでは放置するわけにはいかないということで、当初は『諸君!』の投書欄に投稿をしたわけです。」(同一六七頁)とある。
渡辺弁護士は、ここで、原告の反論文と同様に、本件著作物で原告が言いたかったことは、むしろハオ師の説明(それも「ベトナム当局側の弁明」「当事者側の弁明」と言い換えられている)と「全く正反対のこと」だったかのように解説しているが、しかし、本件著作物のどこにもハオ師の説明が「ベトナム当局側の弁明」あるいは「当事者側の弁明」にすぎないこと、ましていわんや原告がこの「ベトナム当局の弁明にかなり問題がある」と考えていることを窺わせる記述は全くない。
あるのは、「西側での宣伝に対し私が確信をもって反論するために」、つまり、ベトナムの「古き友」として、ハオ師の説明が正しいことを「説得力あるルポルタージュ」として書くために、原告に取材の自由を与えるよう懸命に説く、原告のベトナムへの「熱い連帯」の表明だけではないか。
しかし、いずれにしても、渡辺弁護士だけでなく、原告自身も、現在では、ハオ師の「弁明」には疑問があり、本件事件の真相はやはり焼身自殺であったと考えていることが明らかであるが、実は、本件評論が原告の名誉を毀損しているという主張それ自体がそのことを言外に物語っていたのである(*)。
*同じことを原告自身の言葉を借りて説明しよう。原告は次のように供述した。
「これを読んだ人、つまり読者、この私の原文を知らないで、こちらだけ読んだ人から見れば、そのように取られると思いますね。なんて本多ってひどいことを書くのかというふうに明らかに取ると思います。したがって、私としては大変な屈辱であり、名誉毀損だと思いますね。」(原告一二回三六丁表裏)
しかしながら、「なんて本多ってひどいことを書くのか」という名誉毀損が成立するのは、本件事件の真相が焼身自殺だった場合である。焼身自殺を「色キチガイの坊主が・・・無理心中しただけのことだ」と書いたとき、ひとは「なんて本多ってひどいことを書くのか」と思うのである。本件事件の真相が無理心中であれば、原告は、事件の真実を日本に初めて伝えた者として賞賛されるだけのことではないか。
そのような観点からの被告代理人の質問(原告一四回二二丁表〜三一丁裏)に対し、渡辺弁護士は、「その趣旨が分からないんですが、私が聞いても」と異議を述べた(同二五丁裏)。しかし、渡辺弁護士自らが前記発言で明快に説いたように、原告自身がハオ師の説明を「当事者側の弁明」にすぎず「かなり問題がある」と考えていた場合にはじめて、本件評論での「引用」が「ひどいこと」になるのである。
八 殿岡テープー本件事件の真相
1 ところで、原告は、本件訴訟の最終段階に至って、被告殿岡に殿岡テープを提出するよう執拗に求めた。
その理由は、殿岡テープには一二名の僧尼の名前を読み上げた部分(唱名部分)が存在しない可能性があるというものであった(原告の平成元年二月二一日付け検証物提出申立書、同日付け鑑定の申出、同日付け検証の申出、同日付け証拠申出書、同年三月一五日付け文書提出命令申立書、同日付け検証物提出命令申立補充書参照)。
そして、この問題について、平成元年六月二日に貴裁判所の決定が、次いで平成元年七月三一日に東京高裁の決定が下され、決着をみたのに、原告は、その後一年以上もこの問題にこだわり続けた(原告の平成元年一〇月二四日付け準備書面、平成二年一月八日付け準備書面、同年一月二三日付け準備書面、同年三月二〇日付け準備書面、同年一〇月二日付け準備書面)。
そこで、被告は、平成二年一〇月二日の口頭弁論期日で示された貴裁判所の勧告に従い、殿岡テープを任意に原告に開示し、自ら検証の申出をし(平成二年一二月四日付け検証の申出)、殿岡テープに唱名部分が存在することを明らかにした。
その結果、当然のことといわなくてはならないが、原告は、殿岡テープに唱名部分が存在しない旨の主張は、事実上撤回し、原告の主張でも、この点については一言も言及していない。
こうして、殿岡テープをめぐる「問題」は、完全に決着済みであるが、しかし、原告は、なお、殿岡テープの信憑性に問題があるかのように主張するので、さらに反論しておこう。
2 さて、原告は、殿岡テープに関する「社団法人未踏科学技術協会」の鑑定書(<書証番号略>)、同補充書(<書証番号略>)、そのベトナム語の反訳(<書証番号略>)、日本語訳(<書証番号略>)を提出した。
被告は、殿岡テープに関する原告の執念に驚くが(鑑定・反訳・翻訳の費用も馬鹿にならなかったであろう)、しかし、その結果は、本多テープは殿岡テープを編集したものではない、被告殿岡の本件評論での殿岡テープの紹介は正確でない部分が存在するという程度のものであって(*)、本件評論の論拠に根本的な疑問を抱かせるものではないし、前記のとおり、そもそも殿岡テープの信憑性は本件訴訟の争点ではないのである。
*原告の指摘によっても、それは全く瑣末な部分である。
なお、前記鑑定書及び原告の主張には、殿岡テープが本多テープより「録音状態が悪い」ことを指摘する部分があるが、原告が所持する「殿岡テープ」は被告殿岡が所持する録音テープをダビングしたもので「録音状態が悪い」のは当然であり、そもそも両方の録音テープとも、マン・ジャック師から提供されたダビング・テープにすぎないから(つまり、両者の録音の前後関係は不明なのである)、録音状態の優劣を論ずること自体が無意味なのである。
3 ところで、原告は、殿岡テープの信憑性を問題にし、さらにマン・ジャック師が「詐術」を弄しているとさえ主張した(原告の平成二年一月八日付け準備書面一一丁表)。
なるほど『諸君!』平成二年一月号誌上での被告殿岡の新たな評論(<書証番号略>。以下、一月号評論という)におけるマン・ジャック師の説明と同師の原告に対する手紙での説明(<書証番号略>)とは一部相反している。
しかし、それは、マン・ジャック師の記憶が曖昧なことに起因しているにすぎず(*)、そのことが殿岡テープの信憑性に影響を及ぼすことはない。何故なら、マン・ジャック師は、殿岡テープの録音者(ないしはその録音内容を自らの体験として解説し得る立場の人物)ではなく、所詮中継者的立場の人物にすぎないからである。
*あるいは、次のように考えることも出来る。
すなわち、マン・ジャック師は、原告に対し、本多テープについて、それが「いかなる編集もされていないオリジナル・テープ」であり、(<書証番号略>)、「(オリジナル・)テープには十二人の名前はありません」(<書証番号略>)と手紙で説明しており、一月号評論での同師の説明と相反しているが、しかし、注意しなければならないのは、同師の原告に右説明は、いずれも原告が同師から送られた録音テープ(すなわち本多テープ)の編集の可能性を問うたり(<書証番号略>)、本多テープには唱名部分がないことを指摘して(<書証番号略>)、原告が送られてきた録音テープの内容に疑問を抱いている態度を示したことに対する「回答」としてなされていることである。だとすれば、マン・ジャック師の原告に対する手紙での説明は、本多テープの信憑性を示すためになされた、いわば善意の誤解に基づく説明である可能性が強いことになる。
そして、何よりも重要なことは、マン・ジャック師が原告に対し本多テープが信用し得るものであることを懸命に説明しようとしていることである。マン・ジャック師は、原告に対し、本件事件の真相を伝える資料として、本多テープのほかに、「ベトナム仏教新聞」(<書証番号略>)、「資料のコピー」(<書証番号略>)を送り、同事件の「真実を語れる唯一の人物」として「ティック・クアン・ドウ師」のことを教える(<書証番号略>)などして、原告からの問い合わせに懸命に答えようとした。
そうであるというのに、原告は、マン・ジャック師に対し、自らを「日本で最も影響力の強い『朝日新聞』の記者」であると名乗り(<書証番号略>)、録音テープを手に入れる目的として、「最初の手紙でご説明いたしましたように、私はこの問題の真相を知りたいのが目的です。そして、はっきりした場合、そのことを雑誌又は新聞で報道したいと思っております」(<書証番号略>)などと「説明」し(<書証番号略>にも同様の記述がある)、本多テープを入手したのち、「今回の御協力に深く感謝して、ロサンゼルスにベトナムの寺を建てる運動に私も少しばかり御協力したいと存じます。そのために日本の吉水師に連絡をとって、まず私自身が献金し、次にこの運動について朝日新聞に記事を書いて、読者に呼びかける予定です」(<書証番号略>)などと書いたのである。
*なお、このこととの対比で、原告が、マン・ジャック師に対し、次のように記していることも興味深い。
「日本ではこの問題がこれまでマスコミで取りあげられたことは、私の知る限り殆どないと思います。わずかに『諸君』という発行部数の少ない日刊雑誌(引用者注・月刊雑誌の誤り)が、ある評論家(引用者注・被告殿岡)の文章として発表したことがありますが、これは事実関係のまちがいが多いために残念ながら大きな影響力を持つことはできませんでした。」(<書証番号略>)
原告は、ここでマン・ジャック師のために残念がっていることになるが、原告は、一体、どちらの味方なのか。原告は、「新生ベトナム」の「友」なのか、「反動的な僧侶」の「友」なのか。
また、『諸君!』の「発行部数(が)少な(く)」、かつ、本件評論も「事実関係のまちがいが多いために」「大きな影響力を持つこと(が)でき(なかった)」という評論は、本件訴訟における原告の反論権の主張を根底から突き崩すものではないのか(※)。
さらに、本件評論には「事実関係のまちがいが多い」などということは、本件訴訟で全く主張されていないが、原告こそ被告殿岡の本件評論を徒らに誹謗していることにならないのか。
それにしても、マン・ジャック師が、最終的には、「発行部数が少なく」「大きな影響力を持つことができない」『諸君!』に掲載された1月号評論で、「日本で最も影響力の強い『朝日新聞』の記者」である原告を批判することになったことは、皮肉という他はない。
※なお、本件訴訟における原告の主張を根底から突き崩すものとして、原告の次のような発言もあった。
「そのベトナム版が、今度の裁判の場合にあたる。ベトナムの報道をしたあの記者をなんとかやっつけるためには、正攻法ではとても歯が立たないから、でっち上げをやろうと。
ただ書いた本人が本当にその意図があったかどうかはどうもわからないフシもあります。あるいは、あの人は『知的水準』が低すぎるために、ああいうバカなことをやっちゃった可能性もある。しかし編集者の方はそうじゃないと思います。そういうアホな人だとわかっていながらそれでも使う。これが文春の体質だと思うんです。」(<書証番号略>一七五頁)
いちいちは指摘しないが、ものごとを「でっち上げ」るにも程がある。また、「名誉」毀損訴訟を提起した原告が平然と他人の名誉を毀損することはいまに始まったことではないが、それにしてもひどすぎる(なお、<書証番号略>参照。そこには名誉毀損的罵倒があふれている。因に『貧困なる精神』の副題は「悪口雑口罵詈誹謗集」である)。
しかし、原告は、最後に、「日本でこれと間接的に関係する裁判(引用者注・本件裁判のことである)の資料としても、このテープは大いに参考になります」と当初の「目的」を裏切る意図をほのめかし、「ロサンゼルスでのベトナムのお寺につきましては、・・・日本側での促進機関が具体的に設立され、募金のための銀行口座と郵便口座ができたときに記事にする予定です」などと手のひらを返す態度に出た。
原告は、原告の平成二年一月八日付け準備書面で、マン・ジャック師は「原告らに対し一種の詐術を弄していたことになる」と主張し、このような詐術は許されないとまで同師を非難したが(同一一頁)、しかし、原告とマン・ジャック師間の往復書簡(<書証番号略>)を実際に読んだ者は皆原告の厚顔無恥に呆れはてるであろう。
詐術を弄したのは一体どちらなのか。マン・ジャック師の善意の誤解に基づく誤った「説明」を入手して小躍りして喜び、苦境に陥った本件裁判の起死回生を狙わんとした原告の手は、まるで白く塗りたくった狼の手ではないか。
4 さらに、特筆すべきことであるが、原告は、マン・ジャック師に対し、
「この問題については、私は時間をかけても徹底的に調査したいと思っております。その上で何らかの形でマスコミに発表する予定です」(<書証番号略>)とか、
「この問題の取材は時間がかかるかとは思いますが、必ず正確な事実を調べるようにしたいと思います」(<書証番号略>)と書き、
さらに、本多テープを入手したのち、
「私はこれから、このテープをもとに、この事件の真相を究明し、場合によってはベトナムへ行ってさらに調査したいと思います。しかし今は他の仕事で忙しくてその余裕がないので、もう少し後になると思います」(<書証番号略>)と書き綴った(*)。
*なお、原告は、本件著作物でも「取材対象としていったん手をつけたテーマは、私はできるだけ長くあとを追うことにしています」(三一五頁、なお、三一七頁〜三一八頁参照)といい、「私としては、いったん取材を始めたものは、なるべく、後のほうまで追跡をしていきたいという考え方なもんですから、当然、これもそのようにやったわけで、そのことはあとがきにも書いております」(原告一二回五丁表裏)と証言した。
そして、これに対するマン・ジャック師の返答が原告の「正体」を衝くものとして、実に興味深い。
マン・ジャック師は、次のように原告に問うた。
「貴殿は近い将来南ベトナム・カントーのラック・ゴイを自ら訪れ、調査するつもりだといっておられますが、誰が許可するのでしょうか。共産主義国では個人的に調査することは不可能です。……
貴殿が現地に行けたとしても、誰があえて貴殿の質問に答えるでしょうか。彼ら及び彼らの愛する者の生命を握る全体主義政権に反対して、誰があえて証人になるでしょうか。
真実を探すためには、調査が最良かつ必要な方法であると思いますが、しかしどんな方法で?」(<書証番号略>)
しかし、原告は、マン・ジャック師の真剣な問いに一切答えることなく(<書証番号略>)、先に引用した「日本でこれと間接的に関係する裁判の資料としても、このテープは大いに参考になります」と最後に思わず本音を漏らした手紙で、再び「この件は近年中に改めて私自身で現地調査をするつもりです」(<書証番号略>)と書いたのである(因みに、先に引用したように、原告は、平成二年三月二〇日付け準備書面一一頁で、「右事件については、更に現場調査等を行ない、資料を検討しなければ到底結論が出せる状態ではないのである」と主張してもいた)。
しかし、どんな方法で?
どうやら、共産ベトナムの「古き友」を自任する原告には、時間さえあれば、現地調査が可能なようであるが、そうであるのなら、原告は、マン・ジャック師から入手した本多テープをはじめとする諸資料、さらには最終的に入手できた殿岡テープについて、原告がマン・ジャック師に対してしたのと同様に、すなわち、「手紙によって」「繰り返し」、ベトナム当局に対し問い合わせ、殿岡テープの信憑性を突き崩す情報を入手しなくてはならなかったはずである。
しかし、殿岡テープに関する原告の主張を支える証拠は、原告及びマン・ジャック師が原告に提供した資料(すなわち、本件評論、一月号評論、マン・ジャック師の原告に対する手紙、殿岡テープ及び本多テープ)と両録音テープに関する「鑑定書」しかない。
原告は、殿岡テープの信憑性を吟味するために必要な情報を収集する手段を他に持っていないのか。そのようなことは断じてあるまい。
しかも忘れてならないが、本件訴訟では、原告の名誉もさることながら、原告が殿岡テープの信憑性を問題にし(さらに、マン・ジャック師の詐術を主張し)たことによって、「日本にも来たことのある」ティエン・ハオ師の名誉も問題になっているのである。
原告が殿岡テープの信憑性を問題にすることは、同時に、ハオ師の「発表」の信憑性を問題にすることを意味する。
そうだとすれば、原告は、ハオ師の「発表」の際に示された「証拠」をもう一度吟味してみなくてはならない(なお、原告は、克明な取材メモを保存していることを公言している人物である。本件の証拠にはなっていないが、原告の著者『ルポルタージュの方法』参照)。不明な点があれば、原告は、労を厭わず、ハオ師に問い合わせなくてはならない。自ら現場調査し事件の真相を知るハオ師にとって殿岡テープの虚偽を暴くことは極めて容易なはずである。ハオ師の手元には「無理心中」の現場を撮影した写真が多数存在していなくてはならない。関係者の証言録もあるだろう。「無理心中」であることを示す決定的な証拠物があるかもしれない(想起されたい。「宴会」「麻薬」「睡眠薬」「色キチガイの坊主が関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中した」)。必要とあらば、原告自身が「現地」ベトナムを訪れなくてはならない。ベトナムの「古き友」としての原告の「立場」は、その場合にも間違いなく役立つだろう。
繰り返すが、本件訴訟では、原告の名誉だけでなく、ハオ師の名誉がかかっているのである。ベトナムの「古き友」である原告が何よりもまずしなくてはならなかったのは、遅すぎることはない、「足で書く」ことである。
しかし、原告は、この七年間、そのようなことは決してしようとしなかった。そして、今なお、本件事件の真相は不明であると主張して恥ずるところがない。
このことは、一体、何を意味しているのか。
もはや多くを論ずるまでもない。本件事件の真相が焼身自殺にほかならないことを原告といえども認めざるを得ないのであり、殿岡テープの信憑性やマン・ジャック師の詐術を云々する原告の主張は、断末魔の空しい叫びにほかならないのである。
八 表現の自由
1 ところで、原告は、全く言及しないが、被告殿岡は、本件評論の末尾で、原告に詫びなくてはならない場合があり得ることを率直に記していた。
「そしてもしこれが本当に、“セックス・スキャンダル”であったというのであれば、私は本多氏に詫びたうえで、ベトナムについての考え方を改めたい。僧尼がそんなふうでは自由なベトナムを回復するなどといったことは、とうてい望みがないからである。」
然り、被告殿岡は、本件評論で、自分がマン・ジャック師から聞いた話(焼身自殺説)を紹介し、原告は本件著作物で紹介したハオ師の説明(無理心中説)の信憑性を疑い、同時に、原告の姿勢を問うたのである(*)。
*前記高裁決定もつぎのように判示している。
「本件評論の該当部分において相手方殿岡はファン・ヴァン・コー事件に関する抗告人の記事のあり方を批判していることが認められ、かつ、相手方殿岡はかかる内容の記事を掲載した根拠の一つとして、本件録音テープが存在しこれが真実と思われたからである旨主張していることが認められる。」(三丁裏〜四丁表)
「国難、法難に殉ずるための焼身自殺と、尼僧との性的関係を清算するための無理心中とでは天地の違い、これ以上の落差は考えることも難しいくらいだが、真実は一つである。どちらが本当なのだろうか」「私は本多氏が記者としての性根をすえて真実を探求しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである」という被告殿岡の原告に対する批判は、本件事件の真相が焼身自殺であったとすればなおさらのこと(そして、前記のとおり、本件訴訟を通じて、そうであることが一層明瞭になったというべきであるが)、全く正当な政治的批判として、民主主義社会において徹底して擁護されなくてはならない表現なのである。
2 しかも、原告自ら主張するように、原告は、「徹底した事実主義」者だったはずである。
原告がボーン賞を受賞したのも、その故であるし、原告は、「事実を徹底的に積み上げ、常に『される側』の論理に立って『する側』を告発する“本多ジャーナリズム”を確立した」人物として高く評価されてきた(<書証番号略>)。
「ジャーナリズムの堕落や退廃は、事実の無視あるいは意図的歪曲からまず始まる」(<書証番号略>)とは、原告自身の言葉ある。
そして、忘れてはならないが、それは、被告殿岡が本件評論で指摘した(かつての)原告の姿勢でもある。
「私は本多記者がかつて南ベトナムでグエン・バン・チュー政権に抗議して自殺した女子大生のニャト・チー・マイを悼んで書いた文章を思い出すのである。サイゴン大学文学部の学生であったチー・マイの焼身自殺はベスト・セラーとなった『戦場の村』の六七頁から七二頁にかけて記されている。そこには国を思い、民族を思い、自由と平和を祈って若い命を投げうった者に対する熱い同情の涙が流れている。
あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。アラスカとニューギニアにつづいてベトナムでも本多記者は『足で書く』記者であったはずである。もちろん『戦場の村』の内容や方法についても批判は多い。しかし本多氏は現場に行って事実を確かめたうえで『自分はこう思う』と自己を守ることができた。」
そして、被告殿岡は、かかる(かつての)原告の姿勢の故に、原告を厳しく批判したのである。
「しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムの抗議は評価しないというなら、また取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を『ハノイのスピーカー』と呼ぶ人がいるのも非難ばかりはできない。」
「私は本多氏が記者としての性根をすえて真実を探求しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」
3 どうしてこれが許されない批判なのか。
原告は、ベトナム戦争当時、ルポルタージュという方法によって(原告には、『ルポルタージュの方法』という著作さえある)、ベトナム戦争の悲惨な現実あるいはサイゴン政権に対する抗議の焼身自殺の壮絶な様を広く日本の国民に伝えた。その「足」によって。しかし、ベトナム「解放」後、原告は、「新生ベトナム」の「古き友」を自任し、ハノイ政権による宗教弾圧に関心を示そうともせず、無批判に「政府御用仏教団体の公式発表を活字にして」何ら恥ずるところがない。
原告がしなければならないことは、本件評論中の片言雙句を捉えて被告殿岡を悪しざまに罵倒したり、「反動文春」による進歩的文化人への攻撃などという抽象論を説くことによって、本件評論に「反論」したかのように読者を欺くことではなく、被告殿岡が本件評論で呼び掛けたように、原告自身が本件事件の真相を究明し、その結果を読者に伝えることである。それこそが原告の「足で書く」記者としての、さらにいえば、事実によって「ベトナム」を報道してきた者としての、社会的使命ではないか。
原告自身、「少なくともジャーナリストや学者なら事実(ファクト)に対しては事実で勝負するほかはないのである」(「事実には事実を」<書証番号略>とかつて説き、「反証が出たときには、あくまでそれは尊重しなきゃいけないと思う。もちろん、立場のない立場はありえない。立場はあって、その上で、その自分の目と違ったものがあったら、それをやっぱり拾わなきゃいけないんだということですわね。仮設や先入観は事実によって常に訂正してゆく」とかつて語ったではないか(<書証番号略>一三五頁)。
4 そこで、最後に言わなくてはならない。
原告は、「もし仮に『報道』そのものが悪だという結論に達した場合には、報道を否定しても良いという立場なんですよ。報道ということ自体が根本的におかしいという疑問に到達したら報道なんかやめたら良いじゃないか――まだ私はそこまで到達していませんが、仮にそういう結論になったら私は報道をやめようと思うんです。」(<書証番号略>)と述べたことをよもや忘れてはいまい。
原告のかかる表現は、小和田次郎によって、「ギリギリのところで報道人として生きている者の壮絶ともいえる息づかい」「捨て身のジャーナリスト人生」などと「本多スピリット」の精髄として、これまた高く評価されていたからである(<書証番号略>)。
しかし、その原告が本件著作物で行ったのは、「西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ『当局によれば』として『発表モノ』をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない」「悪意ある反動側のベトナム攻撃・中傷に対して、かつて純粋に熱い連帯を示した人々が確信をもって反撃したくても、それができない状態にあることを、ベトナムの『幹部』たちはまだ理解できないようだ。それが『古き友』をいらだたせ、去ってゆくことの大きな一因になってはいないだろうか。帝国主義の性格を少しも変えてはいないワシントン政権やパリ政権や東京政権が、背後であやつっているさまざまな陰謀もあるだろう。しかしチョムスキーもバエズもラクチュールも、それだけで動かされている連中だと割り切ってしまっては、少しまずいのではあるまいか。だからといって、私はベトナムがひどい国になりつつあるというのではない。たぶん『一〇倍も美しい祖国に築き上げ』(ホー・チ・ミン)られつつあると思う。そう信じたい。ただ、心ゆくまでの取材による確信をもってそれを報告できないだけである」などというおよそ「事実」とは無縁の心情の吐露でしかなかった。
被告殿岡の原告に対する批判が全く正しいことを確認するために、本件評論を最後にもう一度「引用」しよう。
「私は本多氏が記者としての性根をすえて真実を探求しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤るにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。」
別紙反論文 虚偽の“事実”はいかに作られたか
――殿岡昭郎氏の評論に対する反論文――
本多勝一
一、経過
本誌『諸君!』一九八一年五月号に掲載された殿岡昭郎氏の評論「今こそ『ベトナムに平和を』」は、私のベトナム報道に関して、事実と異なるばかりか、むしろ正反対のでっちあげをした上で私を非難中傷した。これはひどい名誉毀損になるので、私はジャーナリズムの常識的手続きとして、まず、本誌の投書欄に短い反論文を送った。係から「掲載する」という趣旨の返信を得たが、後に当時の編集長・堤堯氏によって拒否された。
投書がだめだというのであれば、反論あるいは訂正、謝罪に類するものを掲載するよう、以来三年間にわたって私は堤氏とやりとりしてきた。この種の事実の間違いについては、なんらかの方法によって被害者のための救済措置がとられるのが、少なくとも一定程度以上の倫理感覚のあるジャーナリズムであれば常識であり、業務でさえある。これまでの私の体験でも例外なくそれは実行されていた。ところが堤・前編集長は私の要請をことごとく拒否した上、ついには「(また反論文を送れば)間違いなくクズ籠に直行させる」といった、とても普通の神経では考えられない反応を示すにいたった。この点、四被告の中でも最も破廉恥で違法性が高いのは堤堯被告であろう。部下がジャーナリズムの一般常識に従って私の投書を掲載するはずだったのを職権で中止させた上、事実の明白な誤りや意図的でっちあげについての訂正の類を、およそ編集・出版に携わるほどの者の中ではかつて見聞したこともない倣慢かつ野卑な態度で拒否し続けてきた。これではジャーナリズムの常識の範囲で解決しようという私の努力など、とてもまともに通ずるような相手ではないし、こんなことが罷り通るようになっては、ペンの暴力がやりたい放題できるファシズム国家となってしまうだろう。これは直接被害を受けたジャーナリストとして絶対に放置するわけにはゆかぬ。
このように時効成立直前まで努力しても無駄だったため、私は株式会社文藝春秋と堤・前編集長らを相手どり、損害賠償や反論文掲載等を求めて東京地裁に提訴した。このたび、本誌に改めて反論文が掲載されることになったのは、その判決の結果によるものである。
以上のような経過があったため、問題の殿岡氏の評論が出てから何年も過ぎてしまったが、できることならば読者は本誌一九八一年五月号の原文を参照した上で拙文を見ていただきたい。字数に制約があるので、ここでは殿岡評論の中から直接関係する部分だけを以下にまず引用する。文中の「私」は殿岡氏である。
二、問題の殿岡評論からの引用
一昨年の九月にやはりベトナム難民を訪れた折にロサンゼルス郊外の「越南寺」を訪れた。ここはベトナム仏教寺院で、ベトナム統一仏教最高委員会の構成員の一人であるマン・ジャック師が主宰しているお寺であった。(二〇字で五行中略)
インタビューが佳境に入り、ジャック師が共産政権による仏教弾圧の具体例を挙げはじめたとき、室内に対決の雰囲気が充満した。ジャック師が一九七五年九月にメコン・デルタのカントーにおける十二人の僧と尼の集団焼身自殺を、弾圧が激しいこと、しかも抵抗も激しいことの事例として挙げたのであるが、これに対して私が、本多勝一記者の『ベトナムはどうなっているのか?』という本には「それは坊さんと尼さんのセックス・スキャンダルを清算するための無理心中と書かれている」と発言したからである。(同一一行中略)
ジャック師は事件とその背景について熱心に語った。サイゴン陥落後、現在のベトナム政権がいかに宗教を恐れ嫌い、中でも最大の社会的勢力を有する仏教を激しく弾圧しているかについて、カントーの十二人の僧尼の焼身自殺が政府と民衆にいかに深刻な衝撃を与えたかについて、仏教の指導者と信者が逮捕と拷問を恐れながらもいかに情熱的に信仰を守ろうとしているかについて語った。
そして最後に十二人の集団焼身自殺が真実であることを証明するものとして、室内のうずたかく積まれた資料の山の底の方から録音テープ一巻と「ベトナム社会主義共和国における人権擁護についてのベトナム統一仏教協会のアピール」と題したドキュメント集一冊を引っぱり出した。(同一三二行中略)
この事件について、本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」であるといっている。少し永い引用がつづくが、比較のためにその部分を引いてみよう。
「事件は去年の六月一二日(この日付は一九七七年のこととなり、外電ともテープの証言とも大幅にずれている)の深夜のことだった。カントーの郊外フンヒェプの薬師禅院というお寺が火事になり、尼さん一〇人と坊さん二人合計一二人が焼け死んだ(僧侶と尼僧の数がテープと少し異なるが、同じ出来事について書いていることは間違いない)。
このヒエンは、解放前にバクリュウ省のホンヴァン郡にいた僧で旧サイゴン政権のスパイ活動をしていた。地元の革命政権がこれを怪しんで警告したところ、ヒエンはカントーに逃げて来た。ここで合法的な仕事をすることにし、鍼と灸を勉強する一方、ヤシ葉で屋根を葺いた簡単なお寺も建てた。二年前の全土解放後もそのままこの寺にいたが、思想的に堕落・退廃していたため、寺の中で多くの尼さんと関係をもつようになり、寺にいた一〇人の尼さんのほか、近くの修道院の尼さんたちもあわせると、合計二六人を妻にしていた。寺の中で男の僧侶は彼の弟一人であった。このため大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食べなければならなくなっていた。
問題の日、ヒエンら一二人は夜七時ごろから宴会を始めた。宴会は午前零時ごろまでつづき、その間麻薬と睡眠薬が使われたらしい。午前一時ごろ火事になった。近所の人が消火に集まったがすでにおそく、それにドアには鍵がかけられていた。ヒエン以外の一一人は、絶望的になった彼の自殺の巻添えをくったものと見られる。『この事件は解放のあとで外国に逃げた一部の反動的な僧侶たちによって絶好の利用価値がありました。特にパリに多い反動分子たちは革命に恨みを抱いていますから、このような単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう』
ティエン・ハオ師は以上のように語った。」(『ベトナムはどうなっているのか?』百七十七―七十八頁)
国難、法難に殉ずるための焼身自殺と、尼僧との性的関係を清算するための無理心中とでは天地の違い、これ以上の落差は考えることも難しいくらいだが、真実は一つである。どちらが本当なのだろうか。
本多記者の紹介する話はいかにもインチキ臭いではないか。「スパイ活動していた」「寺の中で多くの尼さんと関係していた」「合計二六人を妻にしていた」「宴会」「麻薬と睡眠薬」といった小道具からしていかがわしい。「大衆の支持を次第に失い、お布施がなくなって米も買えず、お粥を食べなければならなくなっていた」僧侶が「麻薬と睡眠薬」を用いて六時間に及ぶセックス・パーティに興じていたというのである。
しかし何より問題なのは、本多記者がこの重大な事実を確かめようとしないで、また確かめる方法もないままに、断定して書いていることである。共産ベトナムで報道の自由は当然に存在していない。本多記者も「新生ベトナムと取材の自由」という文章のなかではっきりと確認している。
「残念ながら、その方法(現在のベトナムにおける取材の方法)は戦時下の『北ベトナム』における方法と全く同じか、あるいはそれ以上にきびしい取材制限下での『取材』であった。」(『ベトナムはどうなっているのか?』二六七頁)
従ってカントーの事件でも本多記者は現場に行かず、行けずに、この一二人の僧尼の運命について政府御用の仏教団体の公式発表を活字にしているのである。
もちろん逃げ道は用意されている。本多記者はこの部分を全て伝聞で書いている。彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか。
(同一〇行中略)
あの本多記者はどこに行ってしまったのだろうか。アラスカとニューギニアにつづいてベトナムでも本多記者は、「足で書く」記者であったはずである。もちろん『戦場の村』の内容や方法についても批判は多い。しかし本多氏は現場に行って事実を確かめたうえで「自分はこう思う」と自己を守ることができた。しかしグエン・バン・チュー政権への抗議は美化しても、共産ベトナムへの抗議は評価しないというなら、また取材の自由がないところでは確かめようがないから何でも書くことができると考えているのであれば、これは報道記者としての堕落である。いま本多記者を「ハノイのスピーカー」と呼ぶ人がいるのも非難ばかりできない。(同六行中略)
私は、本多氏が記者としての性根をすえて真実を探求しなければならないと思っている。誤りは人のつねといっても、誤りにも誤りかたがあるというもので、十二人の殉教を“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに本に書いたというのでは言訳はできまい。本多記者は筆を折るべきである。そしてもしこれが本当に“セックス・スキャンダル”であったというのであれば、私は本多氏に詫びたうえで、ベトナムについての考え方を改めたい。僧尼がそんなふうでは自由なベトナムを回復するなどといったことは、とうてい望みがないからである。
三、殿岡式でっち上げのからくり
以上の殿岡氏の文章だけ読むと私(本多)がいかに無責任でひどい記事を書いたものかと読者は呆れるであろう。だが、この一文が発表されたあと私の書いた(しかし掲載拒否された)反論文にあるように、「これらの文章は、『お粗末』の度をすぎて刑事事件の対象になるべき実例」であり、私はこの「『国立大学助教授』(当時)の頭を疑い、従って資格を疑」った。この人のいる国立大学を受験する学生(そして合格する学生)の中に、これほどひどい“論文”を書く例があるだろうか。これがどんなにひどい代物かは、私の原著書『ベトナムはどうなっているのか?』(朝日新聞社)を読んで、殿岡氏の“引用”(つまり「殿岡式引用」)と比べてみるだけでも明白になろう。だが、本誌の読者の中にそんな比較をしてみる人など希有だろうから、このひどいでっち上げ引用の実態に気づくこともめったになく、読者はでっち上げによって騙されたまま現在にいたり、したがって私は不当に名誉を傷つけられたまま現在にいたった。
では、まず次の部分を再読していただきたい。
これに対して私が、本多勝一記者の『ベトナムはどうなっているのか?』という本には「それは坊さんと尼さんのセックス・スキャンダルを清算するための無理心中と書かれている」と発言したからである。
殿岡氏によれば、殿岡氏はジャック師に対して、本多の本にこう書かれている、と発言したことになる。なるほど「書かれている」ことは事実であろう。この論法によれば、同じことが「殿岡氏の本に書かれている」ことも事実である。つまり私がジャック師に会って「殿岡氏の書いた文章に、それは坊さんと尼さんのセックス・スキャンダルと書かれている」と発言してもまちがいではない。殿岡氏の文が出ている『諸君!』一九八一年五月号の五九ページにはちゃんと書かれているのだから、全くこれは「事実」である。
(ただし後述のように、正確にはこれはその意味の事実でさえもなく、セックス・スキャンダルなどという言葉を私は一度も使っていない。)
すなわち私は「愛国仏教会」(統一ベトナムでの体制側、つまり革命政権に協力する側の仏教界組織)の説明として紹介した内容を、殿岡氏はあたかも私自身が調査したルポであるかのようにジャック師に伝えたのだ。こういう事をやりだせば、ニクソン氏(旧アメリカ合衆国大統領)の文章にホー=チ=ミン主席と同じ意見が「書かれている」こともありうるし、左翼の文章に右翼の意見が「書かれている」ことも、裁判長の判決や検事の論告の文章にドロボウ(被告人)の意見が「書かれている」ことも普通だから、もう引用のルールもへったくれもなくなる。
にもかかわらず、もし私が私の著書『ベトナムはどうなっているのか?』で、この愛国仏教会の説明を丸ごと信じ、それを支持しているのあれば、殿岡氏のやり方がいくら無茶でもあまり文句が言えなかっただろう。ところが、殿岡氏はジャック師から聞いた話を紹介したあと、次のように「書いた」のだ。
この事件について、本多記者は「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」、「堕落と退廃の結果」であるといっている。少し永い引用がつづくが、比較のためにその部分を引いてみよう。
「事件は去年の六月一二日・・・・・・」
これは恐るべきでっち上げである。私の原著書『ベトナムはどうなっているのか?』の一七七ページを見ていただきたい。「焼身自殺などというものとは全く無縁の代物」といったのは、このことを私に語った愛国仏教会のハオ師なのだ。この言葉は、わざわざカギカッコに入れて次のように私は「書いた」のだった。
日本にも来たことのあるティエン・ハオ師は、この事件について私たちの質問に答えて、「外国に逃げた仏教徒が歪曲した宣伝をしていますから、事実をよく知って下さい。焼身自殺などというものとは全く無縁の代物です」として、ハオ師自身が事件の現場調査をした結果を以下のように明らかにした。
右のようにはっきりとハオ師の言葉として引用したのだが、殿岡氏はこれをそっくり私自身の言葉にしてしまった。「堕落と退廃の結果である」という(殿岡氏によれば)カギカッコつきの私の言葉も、もちろん原文のどこにも私の言葉としてはでてこない。
もともとこの引用全体が、読者を欺くための実に巧妙な手口を使っている。殿岡氏が「少し永い引用がつづくが、比較のためにその部分を引いてみよう」と書いてから、次のようにしてカギカッコで始まる長い部分を再読していただきたい。
「事件は去年の六月一二日・・・・・・」
この引用は、終りの部分が次のようになっている。
『この事件は……(中略)……単なる色事師の無理心中事件を“集団焼身自殺事件”にでっちあげて声明を発表したのでしょう』
ティエン・ハオ師は以上のように語った。」
殿岡式引用のからくりは、この引用の最後で「以上のように語った」という部分だけ収録し、引用の前にも私が書いている「以下のように明らかにした」は削除したところにある。このからくりの結果、ハオ師が語ったのは『二重のカギの中』だけになってしまい、それ以外の長い「一重カギの中」は私自身の調査結果であるかのように化けてしまった。からくりの分からぬ読者は、ハオ師の語ったのはほんの七行の言葉だけと思わざるをえないし、従ってそれ以前の「事件は去年の・・・・」以下三九行は私自身のルポと見るだろう。このような恐るべき“引用”は、もはや明白な著作者人格権侵害であり、一般常識としても“犯罪”(違法行為)といわねばならぬ。
問題は殿岡氏にとってさらに深刻だ。殿岡氏が引用した同じ私の著作『ベトナムはどうなっているのか?』の二六八ページで、次のように私は「書いた」のである。
西側で宣伝された事件のひとつに、去年カントー(メコン・デルタ最大の都市)で起きた「一二人の焼身自殺」がある。これは新政権への抗議自殺だといわれているが、サイゴン当局の調査によれば、単なる色キチガイの坊主が、関係した尼さんたちを道づれに寺に放火して無理心中しただけのことだ。しかし、西側での宣伝に対して私が確信をもって反論するためには、私自身が自由に現場へゆき、その周辺の人々から自由に話をきく必要がある。そうでなければ「当局によれば」として「発表モノ」をそのまま報道するにとどまる。それはそれで意味はあるものの、私自身の直接的ルポとするわけにはゆかない(一七七ページ参照)。
このように、わざわざ私は、私自身のルポではないこと、単に「サイゴン当局の調査によれば」とする紹介にとどまることを、同じ本の中で明記している。「発表モノ」を伝えただけであって、その内容に私が責任を持つわけにはいかないことを、はっきりことわっておいた。それを殿岡氏は一切無視した上で、前述のような“犯罪”を実行したのである。
殿岡氏は同じ本のこの部分に気付かなかったのだろうか。そうではない。さきに引用した殿岡氏の文中で、殿岡氏はこのすぐ前のページ(『ベトナムはどうなっているのか?』二六七ページ)から、別の部分、つまり殿岡氏の“犯罪”に好都合な部分だけ、それだけを抜きだして引用している。すぐ続いて右の部分があるのに、わざとそれを引用しないのだ。当然であろう。これを引用したら、“犯罪”が成立しなくなってしまうのだから。すなわち、殿岡氏は私の意図と全く正反対のことを私の意図として紹介し、私にヌレ布を着せて世間をだましたのである。
このような計画的“犯罪”を実行しておいて、私がサイゴン当局の発表内容について「断定して書いている」とか「彼自身のコメントはいっさい避けている。なんともなげやりな書き方ではないか」と殿岡氏はいう。私のコメントの部分をかくしておいて、私が「コメントはいっさい避け」たというのである。また殿岡氏によれば、私は「“セックス・スキャンダル”と鸚鵡返しに書いた」そうだが、私の本にそんな言葉は一度も出てこない。(なお、殿岡氏によれば、私はアラスカを「足」で取材したらしいけれど、アラスカなどかつて一度も私は取材したことがない。また私は「ハノイのスピーカー」だそうだが、この『ベトナムはどうなっているのか?』をお読みになった方々であれば事実を判断できるであろう。)
こうして計画的“犯罪”を実行した上で、殿岡氏は最後に「書いた」のである。――「本多記者は、筆を折るべきである。」
四、結論
以上によって殿岡氏への反論を終るが、直接的には殿岡被告が問題であっても、第一章で述べたように、被告らの中でより重大な責任を負わねばならぬのは前編集長・堤堯被告である。文筆業者の中には、編集者の意をくんでデッチ上げを書く卑しい者など、どこの国でも珍しくない。問題はそうしたいいかげんなライターを意識的に使う側にある。使っておいて、その虚偽や誤りの訂正・反論を一切拒否した不誠実な態度にある。さらには、そうした編集長を重用する株式会社文藝春秋にあることを、本稿の結語としておきたい。
別紙謝罪文(一) 謝罪文
株式会社文藝春秋は、その発行する月刊誌『諸君!』一九八一年五月号に、著者殿岡昭郎の「今こそ『ベトナムに平和を』」と題する評論を掲載致しました。
しかしながらその中で貴殿の著作になる『ベトナムはどうなっているのか』に言及した際、引用の誤りを犯すとともに内容を歪曲して貴殿を非難・中傷したことにより、ジャーナリストとしての貴殿の信用を毀損して多大の損害を与え、ご迷惑をおかけしました。
右につき、ここに謹んで謝罪申し上げます。
株式会社文藝春秋社長 田中健五
「諸君!」元編集長 村田耕二
元東京学芸大学助教授 殿岡昭郎
朝日新聞東京本社編集委員
本多勝一殿
別紙謝罪文(二) 謝罪文
株式会社文藝春秋発行の月刊誌「諸君!」一九八一年五月号に掲載された著者殿岡昭郎「今こそ『ベトナムに平和を』」のなかに、何らの根拠もなく貴殿を非難、中傷した箇所がありました。この件につき、貴殿の請求により反論文を同誌上に掲載すべきであり、かつ、投稿文の掲載を約束していたにもかかわらず、これを怠ったためジャーナリストとしての貴殿の信用に多大の損害を与え、ご迷惑をおかけしました。
右につき、ここに謹んで謝罪申し上げます。
株式会社文藝春秋社長 田中健五
「諸君!」元編集長 堤堯
朝日新聞東京本社編集委員
本多勝一殿
別紙本件著作部分<省略>
別紙本件評論部分<省略>